切欠 2
直樹はマンガを手に取り、表紙から裏表紙へぐるりと眺めてみた。
マンガなんて、子供の頃に隠れて読んだ『ドラえもん』以来だ……。
そのマンガはどうやら野球マンガのよう。
直樹は帰り道、本屋で参考書を買うついでに、『野球入門編』という本も買ってみた。
何しろ野球のルールなんて全く知らないのだ。
家に帰ると早速部屋に閉じこもり『野球入門編』を素早く読み、ルールを頭に入れる。
それから、紀子に借りたマンガを読んでみる。
「………」
そのマンガは、中学まで陸上・柔道のエキスパートだった2人が、高校で野球部に入り、甲子園を目指すという話だった。
最初はナナメ読みくらいにしよう、そう思っていた直樹。
しかし自分でも信じられないくらいに、のめり込む。
ほぼ初めて読むマンガに、夢中になってしまう。
あっと言う間に、一気に5冊全部を読み切ってしまった。
切なくもあるその青春ストーリーに、直樹は今までにない感動を覚えた。
その日の勉強は、終始何となくフワフワとした気分。
直樹はそれを早めに切り上げ、もう一度マンガを全て読んでから、その日眠りに就いた。
次の日、直樹は朝一番にそのマンガを紀子に返した。
「あ、これ、ありがとう」
「早ッ! もう読み終わったん? 急がんでいいのに。
どうやった? 感想は」
え! と思う直樹。
「感想文、書いた方がいいの?」
その返事を聞いて、笑い転げる紀子。
何か間違えた、と気付いた直樹は、
くそー……人と接するのには、僕にはちょっと限界があるな……
などと思っている。
「感想文なんかいらないよ。面白かった?」
「うん、面白かった」
いつになく、大きめの弾んだ声で返事をする。
「私、マンガいっぱい持ってるから、面白いの貨したげるよ」
「あ、ありがとう」
本当にありがたいと思っているが、あまり貸してもらって時間を取られるのも堪らないなぁと、冷静に思う直樹もいる。
と、その時、紀子はイキナリ立ち上がり、
「秋月くん、ちょっと立ってみて」
直樹は言われるまま、立ち上がった。
紀子はそんな直樹の正面にピタッとくっつくように立ち、自分の頭頂部に手を当てて、
「ねぇ秋月くん、身長何センチあるの?」
「えっと……、こないだ測ったときは確か、180だったかな」
「え!! そんだけ身長あるんやったら、バレー部に入りなよ!
私の家ってね、そこの通りの商店街にあるスポーツ用品店やってんねんよ。
親が何か運動せなアカン言うてね。私、バレー部なんやわ。
秋月くんもやりなよ」
直樹はこういう意見に対しては、いつでも意見を持ち合わせている。
僕には、娯楽に費やす時間などない。
そう答えようとすると、紀子が続けて言った。
「今日は土曜日だから、2時から体育館で練習してるから。
一回見においで。
そんだけ身長があったら、何かやらなアカンよ」
「いや、いや、僕は…」
と言い掛けた時、がらりとドアが開き、担任が教室に入ってきた。
「………」
断りきれなかった直樹。
自分の席の前に座る紀子をじーっと見ながら、
この子は一体何のためにこんな進学校へ通ってるんだ?
成績の方もさぞかし……
巻き込まれちゃダメだ。
そんなことを考えていると、担任の教師が皆を見回しながら大声を張り上げた。
「こないだの実力テストの結果を配るぞー。
自分が何番なのか、今どの辺りにいるのがちゃんと確認せぇよー」
それは直樹が待っていた瞬間。
前の学校では常に1番だった直樹。
この学校での自分がどんなものなのか、早く知りたい。
配られたその用紙には、学年全員の点数のみが表になって高い順に並べられていた。
右上には自分の名前と点数。
生徒たちはこの自分の点数と、表の点数を見比べ、自分の順位を知る。
直樹はまず、表の1番上を見てみる。
そして自分の点数と見比べてみる。
直樹は学年で1番だ。
それを確認した直樹はホッとした。
それから冷静に、2番の点数を見てみる。
しかしその点数を見て、直樹はギョッとした。
自分とたったの5点差で、2番についている人間がいるのだ。
……嘘だろ。
あのテスト、結構難しかったぞ!?
くっそー!どこのどいつだ!?
この学校、侮れねぇ。
そんな直樹の耳に、前から同じように「くっそー!」と言う声が聞こえてきた。
その声の持ち主である紀子がバッと振り返り、
「ねぇ秋月くん、何番?」
直樹はまだ動揺しつつ、一番だったからまぁいいか、と紀子に自分の用紙を見せる。
すると、紀子から信じられない言葉が。
「あ!私を抜いたの秋月くんやね!くっそー!ずっと1番やったのに!!
次は負けへんよ!」
そう言って紀子はニコッと笑った。
「………」
……何言ってんだ、この子。
そう思いながら、紀子の用紙を奪い取りその点数を見てみると。
「!!」
『成績の方もさぞかし……』
つい先ほどそう思った彼女が、自分と5点差で2位につけている。
驚いた直樹は思わずガタッと席を立ち上がり、紀子の顔を凝視してしまった。
机上での勝機に危機を感じる前に、
マンガ本をやたらと所有し、クラブ活動までしているこの子が、僕と5点差…!?
直樹の心臓はドキドキしている。
直樹はこのドキドキが、自分の戦々恐々とした心境だと思い込んでいるのだ。
そして彼はこの時初めて、紀子が振り返るたびに髪からイイ匂いがすることに気が付いた。
この日は土曜日。
学校の授業は午前中のみ。
直樹の土曜日の昼は本来なら勉強浸け。そしてそうしなければならないのが直樹のルール。
しかし、この日は昼食を済ませると急いで本屋に駆け込む。
そして購入したのは 『バレーボール入門編』
直樹は店を出るとすぐに包装を破り、その場でバレーのルールを頭に入れる。
自分自身、今何をしているのか分かっておらず、そしてそのことに気付いてもいない。
気の向くままに身を任せている、それだけ。
その足で向かった先は、紀子に言われた学校の体育館だ。
中からは大きな声やボールの音がひっきりなしに聞こえてくる。
入口からそっと覗いてみるとそこではバスケ部、バレー部、卓球部が練習しているのが見えた。
バレー部の方を見渡し、集団の中に紀子を見つけた直樹はその場に立ち尽くし、ただただ紀子のことを見つめている。
今話しかけたら、怒られるよな…
そう思い、タイミングを見計らっている。
1時間ほど経った頃、バレー部員たちが休憩に入った。
今だ!と思い、紀子の元へ駆け寄ろうとした直樹は、しかしその視界に入ってきた光景に足を止める。
紀子が男子バレー部員と仲良く談笑しているのが目に入ったから。
「………」
ここで、直樹はようやくいつもの自分を取り戻した。
……アレ?
僕は一体何をしているんだろう。
何をしようとしてんだ?
そしておもむろに向きを変え、体育館を後にする。
……チクショウ。
一体何時間ソンしたんだ!?
クソッ!
やっぱり世間は、やたらと広い!
そう考えつつ、モヤモヤとする自分の心境を振り払うように家へと帰る。
遅ればせながらやってきた、本来の土曜の午後。
机に向かい、己を取り戻したと信じ切っている直樹は、自分が何故今、不貞腐れているのか分からないまま。
パキン
ポキッ
シャーペンの芯が、やけに折れる。
何でこんなにイライラしてるんだよ?
あー、もう!
教科を変えれば多少気分も変わるだろうと本棚に手を伸ばした時、背後からノックの音がした。
「はい」
直後部屋の中へ飛び込んできたのは、弟の慶也。
「兄さん!コレ見て、コレ見て!!」
慶也がバッと広げて見せたのは、背番号が付いた野球のユニフォーム。
大きく『5』と書かれた、ユニフォーム。
「兄さん!入ってすぐにレギュラー番号もらっちゃったよ!スゴイでしょ!!」
喜び、飛び跳ねるように喋る慶也に、直樹は笑顔で答える。
「おー!スゴイじゃんか!」
そして頭の中を駆け巡らせる。
先日、野球入門の本を読んだばかりだ。
5番ってことは、
1、ピッチャー
2、キャッチャー
3、ファースト
………
「サードだ!サードだろう!?」
そう言った直樹に、慶也は大喜びで
「そう!サード!!」
そう叫ぶ。
「スゲェな。入ってそんなに経ってないのに、もうレギュラーって。頑張ったな!」
すると飛び跳ねるのを止めた慶也は、肩を落として俯いた。
「……でもね、入って間もない僕がレギュラー取っちゃって、前のレギュラーの高橋くん、怒ってるんじゃないのかな…。
嫌われたらヤダな……」
それに対し、直樹は即座に返事をする。
「いいか、慶也。そんな気持ちでいるのなら、自分からレギュラーを外してくれって言いなさい。
野球っていうのは9人でやるスポーツだろう。チームプレーが一番大事なんだよ。(←『野球入門編』で得た知識)
その高橋くんだって、次はきっと慶也より上に行くよう頑張ってくるんだよ。
慶也がそんなことを考えていたら、必死で競争した高橋くんにも失礼だろう?
胸を張って、堂々と試合に臨みなさい。
今の慶也にできることは、高橋くんを気遣うことじゃない。全力でチームのためにプレーすることだろ?」
直樹の言葉に、慶也はこくんと頷いた。
「うん、分かった。
レギュラーになったご褒美に、お母さんがグローブも買ってくれるって言ったんだ。
僕、頑張るよ」
「うん、それが一番だ」
慶也はにこっと笑うと、そのまま部屋を飛び出して行った。
「………」
今まで慶也に対して、何度かこういうことを言ったことのある直樹。
この後、必ず鬱になる。
……協調性。
それを問われたとき、僕なんかより慶也の方が断然高いレベルで生きている。
僕が言っていることは、全て本で得た知識。
父は直樹に諭すように教え込む。
友など必要ない、と。
…友など、必要ない、と。
しかし直樹は思うのだ。
友人というのは、一生の宝でもあると言いますよ。
……お父さん。
「………」
こうやって、いつも1時間は頭を抱え込んだまま。
やがてハッと気付いて時計を見ると、すでに時刻は8時前。
その針を見て直樹は思い出した。
……そういえば、久保さんが8時からテレビ見ろって言ってたな。
直樹は悩むのを止めて立ち上がり、そっと階下へと降りていく。
父がいないことを確認し、リビングに行くと、慶也がすでにテレビの真ん前を陣取っていた。
「アレ?兄さんテレビ見るの?」
「あー、イヤー、ちょっとー…うーん……ちょっとね……」
要領を得ない答えを返した直樹に、慶也は、
「兄さんも一緒にコレ見ようよ。めちゃくちゃ面白いよ」
テレビの画面を見ると、番組のタイトルが出ている。
『オレたちひょうきん族』
あ、コレだ。
直樹はソファに座り、慶也と一緒にその番組を見始めた。
そしてまず、思ったこと。
……暴走族の一種じゃねーんだな……
直樹の目に飛び込んでくるもの。
大人たちが大勢集まり、馬鹿のフリをしながら水浸しになったり、粉まみれになったりしている。
そんな様。
初めて見るそういった番組に度肝を抜かれながら、知らず知らずのうちに腹を抱えて笑っている。
やっぱり世間は
や た ら と
広い!
直樹の持つ軸はへし折れないまま、何かに囲われていっているようにも見えた。