払暁 2
直樹はいつもの調子で、
「じゃあセミナーの時間まで、あの店行って時間潰す?一旦帰る?」
そして紀子と並んで歩こうとした。
いつものように。
しかし紀子はその場に立ち止まったまま。
直樹は不思議に思い、振り返る。
すると、
「ごめーん!今日はセミナーには行けへんのよ。
ほいでね……あのー、26日、アレ行かれへんようになった。ナシってことで。ごめんね」
そう言って、紀子はツカツカと歩き出す。
「………」
……この場の空気、事情。
そういったものが一切把握できない。
ついついポカンとしてしまった。
「な……やっぱり怒っとんちゃうん?!どうした?俺、何かした?」
あの時味わった不安がまた、直樹を襲う。
が、今回は事情が違うのだ。
泣きつきたい相手が、直樹に泣きつきたい思いをさせている。
立ち止まっている直樹から少し離れると、紀子は振り返った。
「ほんまにごめんね。今日は一人で帰って」
「………」
―――― 朝覚えた、ほんの少しの怒り。
あんなものは帳消しなんです。
俺は事情の読めない名人。
自分の言動に責任を持てない名人。
記憶力散漫の名人。
今日、家でいろいろ振り返ってみて、心当たりのある箇所を全て謝ろう。
この動悸。
もう失敗は許されない。
きっと、俺に何かが……
きっと、俺が何かをやってしまったんだ。――――
セミナーでの授業を終え、家へと帰る。
紀子が言っていた通り、やはり教室に彼女の姿はなかった。
電話の前に立ち、一度は我慢する。
まだ謝るべきことが思いつかない。
お風呂に入りながら、もう一度考える。
ここ数日あった出来事。
そのもっと前。
その、もっと前。
……パクウとタケシのこと、嘘吐いてるのがバレたのかな。
それ以外に思いつかない。
お風呂を出てもう一度、電話の前に立ってみる。
イチかバチかに賭けてみよう。
俺はここで、彼女の言葉に甘えるぞ。
帰ってすぐにはできなかった電話を、イチかバチかで掛けてみた。
ドキドキしながら、指先が完全に記憶している紀子の家の電話番号を押す。
コールされるたびに、心音が早くなるような気がした。
そこまで昂ぶってしまったが、昨日・一昨日と同じように、電話には誰も出ない。
ここで少しホッとするのが、俺の悪い癖。
先延ばしになっても、何も良いことなんかない。
明日、とっ捕まえてでもちゃんと喋るぞ。
俺には君に、あの2人に教わって、刷り込まれたものがあるんだ。
ここでホッとするのは、全然違うんだ。
そして、昨夜の母の姿を思い出す。
今日俺が思ったアレは、
タイミング的に……っていうのは嘘だろう。
誰に対しての嘘?
俺は、お母さんに泣きついたんだよ、きっと。
だって今もまた、昨夜のようにお母さんと話そうかな、なんて思っている。
何て都合のいい話なんだろう。
今日は絶対にしない。
そんなことをしていたらほら、
……自分の歩先を見失うぞ。
だから今夜は我慢して、明日紀子さんとちゃんと話そう。
そして何が何でも、許してもらおう。
俺の甘え体質は、もう取り返しのつかないところまで来ているんだから。
次の朝。
いつもとは違う朝。
足取りは重いが、勇気を持って前に出ろ。
そう念じながら登校した。
……強く逞しい右腕よりも、変化に対応する術を知る者。
俺は紀子さんと話し、またステップアップしてやる。
……緊張してきた。
だけど俺は怯えない。
これほどの決心が要った今回の出来事。
しかし学校に着いても、そこに紀子の姿はなかった。
…また、今日も休みなのか。
俺はもう、絶対にホッとしない。
このまま学校を抜け出し、彼女の家に向かおうか。
そんな特別なことを考えているこんな日に限って、クラスメイトたちは直樹に話しかけてくる。
協調性というものを持ち始めたここ最近の直樹は、自分の意思とは裏腹にそれらを邪険にすることができない。
この日は終業式。
昼まで学校に居れば……
帰りに寄ればいい。
席に着いて考え事をし、俯いている直樹。
そこに担任が入ってきた。
顔を上げて教壇を見ると、教師の他に立っている人がもう一人。
……紀子だ。
「えっとなー、急遽決まったことで、今日報告することになってしもうたんやけど、久保がな、転校することになった。3学期からは別の学校や。
久保、何か皆に言うことあるか?」
……驚きすぎて、頭の中が真っ白になった。
涎が出てきた。
拭う気にもなれない。
教壇に立って挨拶をしている紀子の姿。
凝視しながらも、何を言っているのか全く聞こえて来ない。
……転校なら俺もした。
……ん?転校?
新幹線で、何時間だっけ?
向こうの学校の人たちとは、夏休みに一度会った。
会ったというより、俺が会いに行った形だ。
転校……?
……聞いてねぇ。
理解を固めた直樹がまず取った行動は、勢い良く席を立つこと。
ガタッ!という音に反応し、紀子もこちらを見る。
一瞬目が合った。
しかし紀子はすぐに視線を元に戻し、何かを喋り続け、最後に頭を下げた。
そして自分の席に着く。
それに合わせ、直樹も座り込む。
「………」
強く逞しい右腕?
……漠然としすぎやろ。
変化に対応する術?
……そんなのあるのか?
それを知る者?
……そんな奴おるんか?
重すぎる現実だった。
直樹は考え事すらできないでいた。
辛うじて呼吸をし、皆と列をなし、同じ行動を取っている。
そのレベル。
意識の向こうに置いてあったもの。
『人に迷惑を掛けてはいけません』
それをこっち側に持ってきた、直樹。
この日はずっと、紀子を避けるように行動していた。
下校時間。
教室を出たところで、直樹は女子たちが集まっているのを目にした。
輪の中心にいるのは紀子。
また一瞬彼女と目が合ったが、今度は直樹から目を逸らす。
彼女たちの横を通り過ぎ、校舎を出てグラウンドを歩いて行く。
とぼとぼと。
重心をふくらはぎの間に溜め込んだまま。
もうすぐ校門に差し掛かろうとしたところで、後方から駆け足の音。
しかし直樹はそれに気づかない。
と、後ろからいきなり、勢いよく腕を組まれた。
驚くこともなくゆっくりと首を横に向け、視線をずらすとそれは紀子。
「……直樹くん、ごめんな」
……言葉が出ない。
「今日な、ウチの近くまで送ってくれるかな。歩いて帰ろうか」
……返事が思いつかない。
何も答えない直樹を見て、紀子は組んだ腕を離す。
そして直樹に並んで歩き始めた。
「「………」」
落ちる沈黙。
しばらくすると、紀子が口を開いた。
「……あー、やっぱり私、やることキチャナイなー。うん、キチャナイ!」
……言ってる意味が分かんねぇよ。
頭の中で処理できないことばかりだが、直樹もようやく口を開く。
「……ね、転校って、どこに行くのさ」
「それは言われへん」
頭に来た。
「何で言えねぇんだよ!?何だソレ!自分勝手すぎねぇか!?」
「女なんてのはそんなモンやで?覚えとった方がエエよ」
「…ッ」
何じゃソレ!!
朝、誓った思いは何処へ?
とも思う。
話をしないと。
とも思う。
少し前を歩く紀子を見ながら、一択しかないこの状況の中、2人の姿がぼやけて見えて……
自分の力ではどうしようもないと、諦めていた。
沈黙の時間が、長く長く……
あっという間に、紀子の家の近くまで来てしまった。
裏口から家の中に入っていく紀子。
何の言葉も掛けられず、見送る直樹。
最後だけ
一つだけ確認を
そう思って声を上げる。
「ねぇ、引っ越すって、いつ引っ越すのさ?」
扉を開けかけていた紀子は直樹を振り返り、
「明日」
とだけ答え、家の中に入ってしまった。
以前慶也のグローブを買いに立ち寄った、この店。
紀子の家。
店の正面を見ると、先日とは明らかに様子が違っている。
看板は剥がされ、店中は真っ暗。
店の前のショーケースに飾られていたスポーツ用品は全て、なくなっている。
そして気づいた。
……店が、潰れたのか。
直樹は自分の家の方に足を向け、歩き出した。
バス停で立ち止まり、そのままバスに乗る。
……店が潰れてしもうたんやな。
彼女、悪うないやん。
俺、何であんな態度やったんや……。
―――― 中古品。
ワンユーザー、ツーユーザーを経て売りに出されている商品なんて、俺の中ではあり得ない。
購入する価値もない。
だけど俺は、古本屋にはよく行くんだ。
あの何とも言えない匂いの中、いろんな本を読んでみる。
破れている箇所。
何か食べ物のシミが付いたようなページ。
中でも目を引くのは、濡れたようにヨレヨレになったところ。
俺はそのページを見逃さない。
前後を読まず、文脈がどうであれ、そのページだけは読んでみるんだ。
これがもし涙の痕であるならば、前の持ち主は何を考えたのだろう。
涎の跡であれば、何が退屈で寝てしまったのだろう。――――
バスを降りた直樹は、すぐそこにある自宅へと向かって歩く。
―――― そんなことを考えながら古本屋で本を漁ると、面白いんだ。
俺の知らない誰かの、俺の知らない深いところ。
でも、これは何の勉強にもならない。
あくまで俺の想像であって、答えなんか聞きだせないんだから。
片思いでしかない、コミュニケーションなんです。
俺はいつも、こうだ。
求めるばかりで、何も与えていない。
紀子さんに対し、彼女がどういう意図を持って俺に冷たくしたのか。
考えようともしていなかった…。 ――――
家に入ると、すぐ横の廊下を珍しく母が掃除していた。
「あら直樹さん、お帰りなさい。今日は随分早いのねぇ」
「何言ってるんですか。今日は終業式です」
「あ、そうでしたねぇ。
私、ドライフラワー落としちゃって、廊下を汚しちゃったのよ。直樹さん、ちりとり持ってくださる?」
「あ、いいですよ」
そう言って、散ってしまったドライフラワーの花弁を箒で集めている母の手伝いをする。
そしてそのまま2階に上がり、自室に閉じ篭った。
ベッドに横たわり、白い天井を見つめながら。
……俺がこの地にいるのも、あと3年くらいなんや。
どっちにしても大学は東京。
大学に行く頃にはもう随分大人やし、例えば彼女と同じ高校に入ってて俺が転校するってなったとしても、大学でまた一緒になれる。
そん時はもう大人やし、何とかできる。
……そう、想定してたんや。
せやけど、今回は違いすぎるやろ。
俺じゃなく、この地を出て行くのは彼女の方。
俺の中で、あの人しかおらんと思っている彼女がいなくなる……。
胃がキリキリし始めた。
こんな感覚はもちろん今まで一度もない。
直樹は布団を被り、包まる。
早く時間が経ってしまえ!
そう思う。
少し眠っていたような気もするが、実際はどうだったのか。
外を見ると、もうすっかり暗くなっていた。
こんなときでも腹は減る。
直樹が1階に降りると、もうすでに食事の用意はされていた。
そして、このタイミング。
テーブルを見ると、父の姿。
こちらをチラと見た父。
それに気づくということは、俺も父を凝視しているということだ……。
直樹は自分の席に着き、食事を始めた。
慶也もいる。
母もいる。
父もいる。
俺もいる。
久しぶりの4人の食事。
以前は普通の光景だったが、最近はこういう形を取っていなかった。
いつもなら自分から時間をずらす。
しかし今日の直樹は、その馬力すら奪われていた。
とても静かな時間。
慶也の方からする、食器とナイフが当たる音のみが耳に入ってくる。
「慶也」
父の声。
「野球は小学校までだぞ。分かっているな?
その約束をしたから大目に見てやっていたんだぞ。分かっているな?」
父が喋りだしたところで、直樹は食事を止め、席を立つ。
そしてそのまま外に出た。
自転車に跨り、走り出す。
立ち漕ぎで、全速力で自転車を走らせる。
上着を着て来なかったので寒くて仕方がなかったが、そんなことはどうでも良かった。
さっき時計を見た。
19時20分。
直樹は自転車を走らせる。
母への甘え。
紀子さんへの甘え。
タケシへの甘え。
パクウへの甘え。
みんな、そういったものでバランスを取りつつ生きてるんだろうな。
やって良いことなのかもしれないな。
直樹は自転車の全速力を止めない。
先日した、母との会話。
父がその場にいるだけで散漫させられる。
母は俺の味方なのかもしれない。
もちろん慶也も。
それが、嘘か幻のように思えてくる。
……父の重圧にかかると。
そんなのはお前の思い過ごしだと、決定付けられた気がする。
この際だから言わせてもらうと、うちにはやはり俺の椅子はない。
でも外に出ると、3人がいた。
タケシ
パクウ
2人は今、この町のどこかにいる。
だけどもう、会いに行けない。
俺の存在自体が、2人を大きく傷つけた。
全速力の自転車が向かう場所は、もう決まっていた。
……紀子さん
君はまだ、この町にいる。
直樹は全速力で、紀子の家に向かっている。
何度も見た、この商店街。
昼間通ったときは気づかなかったが、まだこんな時間なのにシャッターが閉まっている店が多すぎる。
営業している気配のない店がたくさんある。
……全然気づかなかった。
紀子さんの店もまた、この通りの景気の悪さに呑まれてしまったのか。
我々15歳の力のなさ。
親に従うしかない。
……思い知るよ。
彼女だって転校なんかしたくない筈だ。
俺と一緒の高校へ行く。
ずっとそう言ってたんだから。
直樹は紀子の家の真ん前に立った。
ここまで来たが、どうするか、そこまでは考えていなかった。
ただ、思った。
俺はちゃんとした彼女の声を、聞いていない。
直樹は紀子の店の真向かいにある、シャッターの下りた店の前に座り込む。
正面の店は真っ暗だが、奥の方からは光が差している。
紀子はまだ、この家にいる。
俺は何をするつもりだ?
彼女が出てくるのを待つのか。
1人で時間を潰すのは得意中の得意だった。
でも、それは以前の話。
手慰みをしながらここにいる心境でもなく、眠気もない。
少し寒いだけ。
直樹はひたすらその姿勢のまま、じっとして動かないでいる。
やがて知らない間に、先ほど差していた光が消えていた。
もう寝たのかな。
今もしも彼女が外に出てきたら、俺は変態扱いされるんじゃないか。
そんなことも考えてみるが、それ以上に大事なこと。
……彼女の声。
考え事もなくなった。
する内容がなくなった。
ひたすらひたすら直樹はその場を動かず、時間が経つのを待っている。
腰の痛みを覚え、横になってみたり、また座ってみたり、空を見上げてみたり。
都会の夜には慣れている。
以前いた家と同じく、こっちも夜空が少し明るい。
星なんか一つも見えない。
……紀子さんは星に詳しかったな。
旅行に行ったとき、星座について教えてやると言われていた。
きっとあの辺りは星がよく見えるんだろう。
……そういえば旅行に行くんだったな。
やがてライトによって照らされたものではなく、空が明るくなり始めた。
夜明けだ。
牛乳配達員や新聞配達員が、あんな暗い時間から仕事をしていると初めて知った。
一人、声を掛けてくれた新聞配達のおじさんがいたが、
「旅行に行くので待ち合わせです」
と嘘を吐いた。
迷子・家出だと思われて、ここから引き剥がされるのは俺の思うところではない。
そんなに長いとは感じなかった、この時間。
空に加え、道路も少し明るく見え始めた頃。
紀子の家の扉が開いた。
と同時に、家の前に止まるタクシーが1台。
直樹は立ち上がる。
腰が少し痛い。
家から出てきたのは3人。
お父さんは以前顔を見たことがあるから知っている。
お母さんを見るのは初めてだ。
その後ろ、家を最後に出てきたのは紀子だった。
兄がいると言っていたけれど、お兄さんらしき人の姿は見えない。
3人がそれぞれ、それほど大きくはないカバンを1つずつ持っている。
しかし、今からこの家を後にする光景であるということは、容易に想像できた。
タクシーに荷物を積み込む3人。
そこで、紀子がこちらに気づく。
「あ、」
紀子の声。
直樹はその姿を、ただじっと見つめている。
彼女はお母さんと何やら遣り取りをして、こちらに駆け寄ってきた。
「……もう、何やねん。あのままね、行ったろうと思いよったんやんか、私。何で顔見せるん」
「当たり前だろ。何がどうでどうなってんのか、俺は何も聞いてねぇよ」
「………」
紀子の声。
紀子の姿。
「……新幹線の時間があるからね、あんまりゆっくりできへんねん。
あんな、」
そこまで言ったところで紀子の声は沈み始め、震え、絞り出すような音に変わる。
「店が、潰れてしもうてな。どうしようもないねん。この店、土地、売ることになってんや。
しょうがないねん」
「ハア!?売れたんならまたこの辺で家を買えばいいじゃねぇか!何で余所へ引っ越す必要があんだよ!?」
「知らんよ、そんなこと!他の場所に土地・家買うって、そんな簡単な等価交換あるん!?
ウチは直樹くんトコみたいに…ッ」
紀子はその続きを言わなかった。
怒っているとも取れ、悲しんでいるとも取れ。
自分も悲しんでいるのだが、何の力も持ち合わせてはいない。
ただこの状況に、従うのみ。
紀子につられて泣きそうになるが、ぐっと堪える。
これで完全なお別れではない筈。
そう信じる。
「あんな、直樹くん。私ね、アンタにめっちゃ嫌われてから行ったろう思うてたんや。
人と別れる時ってな、とことん悪者になって嫌われてやった方がエエと思わん?めっちゃ便利やんか、ソレ。お別れなんやし」
「急すぎるんだよ!俺が紀子さん、嫌うわけないじゃないか。何なんだよソレ!便利って、フザけんなよ!」
ここで、紀子はようやくいつもの笑顔を見せてくれた。
そして直樹の肩をポンポンと叩きながら、
「フザけてないんやって。本気で言うてるんやって」
紀子は続けて言う。
「私、直樹くんめちゃめちゃ好きやったで。
何か、直樹くんに言わすばっかりで、私一回も言うてへんかったけど」
そういえば、聞いてなかった。
何故このタイミングで言うんだ。
一生のお別れじゃあるまいし。
向こうから「紀子―!」というお母さんの声。
「あ、もう時間みたい。行かなアカンわ。
直樹くん、受験頑張ってな」
そう言って、紀子は直樹から離れる。
「頑張ってなとちゃうやろ!お互い頑張ろうな、やろ?
向こうに着いたらさ、電話ちょうだい。絶対だぞ。俺、ちゃんとさ、自分でお金貯めて会いに行くから」
紀子はもう一度直樹を振り返り、笑顔を見せた。
そうして彼女はタクシーに乗り込み、行ってしまう。
……もう、ここにいても何の意味もない。
ため息しか出てこない。
夢でも何でもないんです。
俺は寝ずにここにいたのだから……。
思えばいっぺんに友人ができ、彼女ができ、
いっぺんにいなくなった。
これからも長い間、同じ時間を共有すると、
……信じていた。
直樹は歩くのを止め、走り出す。
あの場に、あの光景に、自分を置いておきたくはなかった。
全速力で走る。
途中、自転車を忘れていたことに気づいたが、あの自転車はいらない。
もう、いらない。
そう思い、走り続けた。
この商店街一帯は、2年後には立派なショッピングモールに姿を変える。
直樹の見た、シャッターの閉まったたくさんの店。
あれらは全て、地上げの煽りを受け、閉店に追い込まれた店たち。
その大きな力のトップにいるのは、直樹の父だ。
通りに店を構えていた久保スポーツも、例外ではない。
スポーツ用品店に限って説明をするならば。
以前、直樹の父が建てた大きなデパートの中には、有名なスポーツ用品店が店舗を構えている。
まず直樹の父がしたこと。
商店街の、地上げに対抗する体力を奪うため、その通り周辺の学校・体育館・スポーツクラブなどの施設に圧力をかける。
そうして、そこから流れる用具の修理・仕入れ、そういった収入口を全て吸い上げた。
この商店街に何店かあるスポーツ用品店は営業の仕事を全て取り上げられ、各施設は政治的な力も交えたその圧力に従うほかなく、これまで築いてきた付き合いを反古にする以外なかったのだ。
店舗販売でのみの商売しかできなくなった商店街の各店。
しかし、そのデパート内にあるスポーツ用品店は規模の大きさを利用して商品を大量入荷し、安く販売するというシステムを取っていた。
結果、客足はほとんどそちらへ流れて行く。
店舗販売すらままならない状況に追い込まれた店は、どんどん閉店に追い込まれる。
久保スポーツも漏れなくその流れに属し、地上げに対抗する体力・術を奪われ、この事態に陥ったのだった。
全てを知り、理解していた紀子。
直樹がこの事実を知るのは、まだ先の話。
そして今後、紀子から直樹に電話がかかってくることは、二度とない。
全速力のまま家に帰った直樹。
大きく開いてしまった穴に埋めるものは、何一つ持ち合わせていない。
帰宅してすぐに電話の前に立ってみる。
夢でもなければ何かの間違いでもないことは、よく知っていた。
……だけど
直樹は紀子の家に電話をしてみた。
ここ数日、コールはするけれど一度も通じることがなかった電話。
……パツッという音がした。
「!!」
誰か出た!!
「あ、もしもし!?」
勇んだ直樹の耳に入ってきたのは、聞いたことのない、一方的な声。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません……』
「………」
……繋がらない電話番号にかけたとき、こんな声がするなんて知らなかった。
「へへッ!」
笑えてしまう。
……このキーホルダー、俺が持っててもいいんだよね?
紀子さん。




