切欠 1
直樹は知っていると言う。
この世の中はフルイのようになっている、と。
このフルイは下に落ちてはいけないもの。
残ってナンボのもの。
一歩外に出れば、上下左右へとフルイにかけられる。
細すぎれば落ちてしまう。
太りすぎれば潰される。
必ず枠の中に残り、行く末は枠になってみせる、と。
その日も直樹はいつものように、夜中の1時までずっと勉強をしていた。
睡眠時間も大事だと信じている直樹は、必ず6時間は眠るようにしている。
朝7時に起きる彼にとっては、ギリギリの時間。
時計を見、そろそろ寝ようかとベッドに入り掛けたが、その前に水を一杯飲もうと自室を出て台所に向かう。
その途中、父母の寝室から聞こえてきた、声。
「……いいですか、あなた。慶也が本当の息子なんですよ?あの子にはもっと頑張ってもらわなきゃいけないじゃないですか。
今はのびのびと野球をやらせていますけど、後々はもっと頑張らせます。
だからあの子にも、もっと目を向けてやってください」
「…分かっているが…どうしても要領の良い直樹にばかり目が行ってしまうんだ。
慶也に頑張ってもらわないといかんのは、私も分かっている」
「………」
直樹がこの会話を耳にしたのは、これが初めてではない。
そして、その度に思う。
……僕が一番、分かっています。
今の慶也は直樹にとってダークホースでしかないが、少しの違いで一番のライバルになる。
……競争だろ。
分かってるよ。
しかし直樹にとって、慶也は本当に可愛い弟でもあるのだ。
直樹はそっとその場を離れ、台所には向かわずに自室へと引き返した。
……何の問題もない。
僕が、頑張り続ければいい。
音を立てないようにドアを閉め、布団に潜り込んで息を潜め、……そして思い出す。
そういえば前にアレを聞いたときも、なかなか寝付けなかったなぁ…。
その夜、直樹は最後に3時過ぎを指した時計を見て、眠りに就いた。
この街に移り住み、もう一月が経とうとしている。
一月もあれば慣れるだろうと思っていた街。
しかしその風に、直樹はまだ吹き晒されたまま。
転校先のこの学校は、さすがに進学校。
授業中は水を打ったような静けさで、教師の声と鉛筆を走らせる音のみが耳に入ってくる。
しかしあの、休憩時間の賑やかさ。
みんなの声のデカさ。
登下校の騒ぎっぷり。
これに、直樹はいまだについて行けずにいるのだ。
ギャーギャーギャーギャーとデカイ声で……
そんなことを思いながら登校している直樹の横を、5~6人の集団が追い越し、駆け抜けて行く。
「オイッ!何やっとんねん!!早よぅ来い!
俺らより教室に入るのが遅かったら、ケツキックやぞ!!」
振り返ると、すぐ後ろから何人分ものカバンを持たされた同じ学校の生徒が、ヒイヒイ言いながら走って来た。
それを見て直樹は眉を顰める。
何だ、イジメか?
この学校にもやっぱりあるのか。
…みんな、ヒマでいいね。
こんな時間のロスに付き合わされないようにしないと。
こっちで暮らすのも2~3年の辛抱だろうから。
直樹は標的になっているその彼が、自分のクラスメイトであることも知らない。
他人には全くと言っていいほど興味がないのだ。
と、その時。
直樹の背をバンッ!と叩いて追い越していく人がいた。
「!?」
驚いて顔を見ると、同じクラスの女子。
名前は、久保紀子。
「秋月くん、おはよう!」
彼女は昨日行われた席替えで、直樹の前の席になった子。
「あ、おはよう……」
そう答えながら、何かと自分に話しかけてくる彼女を直樹は密かに苦手と思い、要注意人物だと自分のリストに載せている。
教室に入ると、直樹は自分の机の上にカバンが置かれていることに気付いた。
「あー、ゴメン。今どけるね」
そのカバンは紀子のもの。
彼女はまた笑顔で直樹に話しかけてきた。
「ねぇねぇ秋月くん。『ひょうきん族』 見てる?」
テレビを全く見ない直樹は、紀子が何を言っているのかサッパリ分からない。
…ひょうきん族?
何だ? 暴走族の一種か?
そんなことを考えている。
「アレ?ひょっとして見てないん?私なんか早々にドリフからひょうきん族に乗り換えたんやでぇ。
ブラックデビルがさんまやない時から、高田純次の時から見てねんで!」
「???」
直樹は彼女の言葉がサッパリ理解できない。
「……えっと……今、人と悪魔と魚が出てきたことは分かった。
マンガかな?」
そう聞き返す直樹。
「え~~~~~ッ!!マンガとちゃうよ!
土曜の8時からやってんねんで!見てみなよ。
マンガって!」
ちょっと考え、紀子は続けて、
「秋月くん、マンガとか見るの?」
「……マンガを見る?
本屋で置いてあるのを見たことはあるよ」
直樹はこの地方の『見る』=『読む』の意味がイマイチつかめていない。
紀子はそんな直樹に、
「あ、そうや!」
と言って、カバンをガサゴソし始めた。
「さっき返ってきたから、コレ貸したげるよ」
直樹の机に置かれたのは 『ナイン』 というマンガ本。
「コレ全5巻やねん。マンガとか読まへんのやったら、手頃な冊数やろ。
結構面白いから読んでみて」
「………」
されるがままの直樹。
え――…そんな時間ねぇよ…。
そう思いつつ、言い返せない。
世間はやはり、広い。
そう思った。