変化 2
この日は日曜。
昼食を済ませた直樹は部屋で、退屈だなぁと伸びをする。
これまでの自分なら、退屈だなどと考えている時間はなかったハズ。
今日はタケシともパクとも会う約束をしていない。
紀子にも会えない。
それを退屈と表している。
ベッドの上でゴロゴロしていると、1階から「ただいまー!」という慶也の声が聞こえてきた。
その声に、退屈な直樹は下に下りて行く。
慶也は風呂場で、ドロだらけの野球のユニフォームを脱いでいた。
「今日は野球だったのか」
「うん、今日は試合だったんだ。今日僕ね、4-3だよ。4打点。スゴイでしょ!」
ユニフォームを脱ぎながら答える慶也。
4-3、4打点の意味が、直樹には分からない。
「う、うん、スゲーじゃん」
と一応答えてみる。
「スパイクのヒモが切れちゃってさ。予備がないから買いに行かなきゃ。
あ!そういえばお母さんの言ってた新しいグローブもまだ買ってもらってない!
お母さん!お母さ―――ん!!」
そんな慶也を見ながら、直樹は一つひらめいた。
……久保さん家って、確かスポーツ用品店だ。
直樹は慶也に寄って行き、
「なぁ慶也。だったら今から買いに行こうぜ。俺がグローブ買うの、付き合ってやるよ」
すると慶也、
「え~~、何で?いいよ、一人で行くから。今日は、今から見たいテレビもあるしさ」
「何だよソレ!テレビなんかいつでも見れるじゃん!
なぁなぁ~、頼むよ慶也~。俺も一緒に連れてってくれよ~!」
スルッと立場が入れ替わるこの兄弟。
「…もう、しょうがないな。じゃあごはん食べたらね」
そう言って、慶也はリビングの方に向かっていく。
よし!確か、あの通りだよな…。
買い物に行くんだ。文句はないよな……うん、うん。
紀子に会えるかも、とソワソワし始める直樹。
よし、俺も参考書を買おう。
そう考え、
「参考書を買いたいのでお金頂いていいですか、お母さん」
そうして母からお金を受け取る。
慶也も母親にしがみ付き、グローブのおねだりをしている。
その様子を見ながら、直樹は一旦2階に上がり、ベッドに横になった。
そうしながら、慶也の食事が終わるのを待っている。
しばらくすると下から、
「行って来まーす!」
という声。
びっくりした直樹、窓から大きく突っ込んだ。
「ぉおいッ!!」
慌てて階段を駆け降り、外に飛び出す。
「何だよ慶也!!先に行くんじゃねーよ!置いてかないでくれよ!!
まったく!どういうつもりだよ!?」
マジギレの直樹に慶也は引き気味で、
「…あ、ごめん、冗談、冗談だよ」
「まったく!そんな冗談、ドコで覚えて来るんだよ!」
直樹は必死だ。
2人は自転車に乗り、直樹は慶也の前を走りながら、以前紀子から説明を受けた商店街に向かう。
「えー、兄さん、そんな遠くまで行かなくても、近くにあるよ?」
「うるさいッ!黙ってついて来い!!」
……さっき置いて行かれそうになったことにキレているのか、計画を潰されることがコワイのか。
直樹は熱い。
商店街に着き、一軒一軒店を確認しながら、直樹たちはゆっくり進んで行く。
その内、ショーケースの中に野球のバットやサッカーボールが展示されている店を見つけた。
看板を見ると、
『久保スポーツ』
ここだ!!
直樹は慶也に説明することなくさっさと自転車を止め、慌てて店内へと入って行く。
それに、急いでついて行く慶也。
「ハイ、いらっしゃーい」
その声とともに中から出てきたのは、おじさん。
きっと久保さんのお父さんだ!
背筋をピンと伸ばし、
「こんにちは!」
と見事な90度の挨拶で返す直樹。
「ほら!慶也も挨拶して!」
言われた慶也も、直樹と同じような挨拶をする。
「こんにちは」
「エライ行儀のエエ兄ちゃんらやな。今日は何の用事?」
…アレ?何の用事だっけ??と悩む直樹の隣から、慶也が素早く答えた。
「硬式用のグローブを買いに来たんだ。あと、スパイクのヒモ。いいのある?」
おいおい慶也!敬語使えよ!!
そんなことを考える直樹を放っておいて、
「それならこっちや」
と、2人は店の奥へと行ってしまった。
1人になった直樹は商品を手に取りながら、店の奥ばかりを見ている。
久保さんが出てこないかな……と。
やがて、表へ戻って来たおじさんが直樹に話しかけてきた。
「お兄ちゃんの方は何の用事や 何かいるん?」
ビックリした直樹、咄嗟に、
「はい、参考書を買いに」
「ハァ?」
その返事に戸惑いながら何と答えようか逡巡していると、慶也が2つのグローブを手に戻って来た。
「どっちがいいかなぁ?青のが欲しいんだけど、この茶色の方がしっくりくるんだよな」
そんなことを言われても、直樹にはよく分からない。
「だったら両方買っちゃえばいいじゃん」
すると慶也が驚いたように、
「何言ってんだよ!1個1万円くらいすんだよ!?そんなにお金もらってないよ!」
「え!?こんな臭いモノが1万円もすんの!?」
失礼な直樹。
おじさんにジロッと睨まれる。
2つを見比べ、交互に手に嵌めて迷っている慶也が、おじさんに尋ねた。
「ねぇおじさん。このグローブ、ちょっと使ってみてもいい?」
それに対し、おじさんは快く、
「ああ、エエよ。じゃあちょっと待って」
そう応えると、
「おーい!おーい!紀子ー!?」
店の奥へと入って行きながら、大きな声で叫んだ。
…え!え!?紀子!?
ドキドキと胸を高鳴らせる直樹。
紀子って、久保さんだよな!?な!?
するとすぐに、
「はーい!」
返事をしながら出てきたのは、やはり紀子。
「ワシ、ちょっと店見とかなアカンから、お前ちょっとこの子とキャッチボールしたってくれ。
グローブ決めかねとんねん」
「ああ、エエよ」
直樹の前に現れたのは、今まで直樹が見たことのない私服の紀子。
……ああぁ……!やっぱり正解だ……!!
来て良かった!!
などと思っている直樹の前で、
「よし、じゃあ私とキャッチボールしてみようか」
そうして外に出て行ってしまう、紀子と慶也。
「………」
存在していることにも気付いてもらえない、直樹。
仕方なくひょこひょこと後をついて行く。
店の隣の駐車場でキャッチボールを始めた2人を、直樹は何故かひっそりと隠れるようにして見つめるている。
何度かキャッチボールを繰り返してから、やがて慶也は
「よし!僕、こっちの青い方にする!」
それに対し、紀子が笑顔で言った。
「ソレ内野手用やから、内野守る機会が多いんやったらソッチの方がエエよ、やっぱり」
「うん!お姉ちゃん、ありがとう!」
そんな遣り取りをしながら、2人は店の方へ戻ってくる。
そうして看板を通り過ぎようとしたそこで、紀子はようやくその前に亡霊のように突っ立っている直樹に気付いた。
「わぁッ!ビックリした!秋月くん!?何してんの!?」
気付いてもらえなかったことに落ち込んでいる直樹。
「……ああ、……彼、俺の弟です……」
沈みきってそう答える。
「へぇ!弟くんは野球やってんねや!秋月くんもせっかく身長あるんやから、何かやった方がエエで?」
そして慶也の腕を握りながら、
「ホラ、弟くんなんかまだ小っちゃいのに、腕カチカチやん」
そう言って、今度は直樹の腕も握り、
「ホラ、身長差こんなにあるのに、腕の太さあんまり変わらへんで。
やっぱり秋月くんも、ちょっと鍛えた方がエエんちゃう?」
「………」
ズブズブと、更に沈んでいく直樹。
紀子は言うだけ言って、再び店の奥へと消えて行った。
……はあ~~ぁ……
安息日だからって言って、溜息が絶えないなんて、どんな日だよ……。
帰り道、直樹の後ろを走りながら、慶也は揚々としている。
「帰ったら早速ワックスかけなきゃ!兄さん、ありがとうね。普通のお店では新品のグローブを、あんなにして使わせてくれないんだよ。いいお店だったね!」
足取り軽い慶也に比べ、直樹の踏み締めるペダルはひたすら重い。
「ああ!そう!!良かったんじゃないの!?」
「???」
帰りも不機嫌な直樹。
その自転車のカゴには参考書ではなく、鉄アレイが2個積まれていた。
直樹は就寝前に、紀子の店で購入したその鉄アレイで1時間筋力トレーニングをすることを決めた。
寝るのを遅くするのではなく、勉強時間を1時間削ってのトレーニング。
他の誰かに言われたのならまだしも、紀子にああ言われた自分が許せない。
直樹が初めて持った、異性へのプライド。
次の朝、目を覚ました直樹が食卓に向かうと、そこには父の姿があった。
昨夜遅く帰宅したようだ。
「おはようございます、お父さん」
「……うむ」
いつもの会話。
違うのは、直樹が抱いている父への違和感のみ。
ただ、違和感を覚えたのは直樹だけではなかった。
父は直樹の姿を見て、目を見開く。
「直樹!お前、何だ、その制服は!何て格好をしとるんだ!?ちょっとそこへ立ってみなさい!」
驚いた直樹はその言葉に即座に反応し、立ち上がる。
「お前、その制服はどうしたんだ!?何でそんなダボダボのズボンを穿いとる!?」
そして隣の母に目を遣り、
「お前が買ってやったのか!?」
それには直樹が答えた。
「いえ、お父さん。これは僕がもらったものです。
以前買っていただいた制服は、手違いで墨汁をこぼしてしまってダメにしてしまったので」
「もらっただと!?誰にだ!!」
すごい剣幕の父に、直樹は落ち着いて受け答えする。
「はい、友人からいただきました。別の中学に通っている人たちですが、お兄さんが僕と一緒の学校に通っていたらしくて、お下がりをいただきました」
「友人だと!?しかもそんな不良みたいな学生服を拾ってきおって!!
何でお前はそんなゴミと付き合っとるんだ!!」
父は続けて母を責め始めた。
「私は忙しいんだ!何故お前は、こいつらの面倒をちゃんと見ていない!?
直樹がゴミに感化されていったら、どうするつもりだ!?」
激昂する父の顔を見ながら、直樹はふと思い出す。
…あの時一緒にいた女性に見せていた、父の笑顔を。
今まで一度も見たことのない、父の顔。
あれ以来、自分の中でモヤモヤしていたものが父に対する怒りであることに、この時直樹は初めて気付いた。
「……お父さん、彼らはゴミではありません。こんな僕に情を抱いてくれ、無条件でこの制服を僕に譲ってくれたんです。
今すぐ、さっき言ったことを撤回してもらえませんか」
この日、直樹は初めて父に反抗した。
じっと睨みつけるような姿勢を取っている直樹に、父は逆上する。
「直樹!お前は以前、私が言ったことを忘れたのか!最下層の草や虫に習うことはない!これが全てだ!
私はお前にライオンになれと言った筈だ!お前はあれを理解できていなかったのか!
いいか、直樹。一時の雑音に惑わされるな。お前はライオンになるんだろう!!」
怒りがおさまっていないのは、直樹も同じだ。
「お父さん、僕たちは草食動物でも、肉食動物でもありません。人間です。
彼らの言ってることは雑音なんかじゃありません。ちゃんとした響きです。
僕のお腹の中には、いろいろなものが残っています。
お父さんの言っていることというのは、間違っていませんか?何かから逃げているんじゃありませんか?
それは何ですか?
生きるために逃げているんですか。逃げるために生きているんですか。
教えてください」
全身を震わせながら、そこまで直樹の言葉を聞いていた父は、
「とにかく、私は許さん!!」
そう言い残し、自室へと戻って行った。
「………」
「………」
呆気にとられている母。
俯いてしまっている慶也。
そんな彼を見て、
「……慶也、ごめんな」
一言声を掛け、直樹も学校へと向かった。
登校中、直樹は考える。
最近の俺は、気が散っているのか。
……いや、違う。
覚えなきゃいけないことが、たくさんあるだけなんだ。
お父さんは間違っている。
俺は泥棒したわけじゃない。
何も盗ってない。
その日の授業が終わると、直樹はタケシとパクの迎えを待ち、一緒にパクの家へと向かった。
いつものように。
そして一緒に勉強をする。
それは直樹にとっての楽しい時間。
しかし直樹は今日1日、今この時間も、まだ言い足りない父への発言を繰り返しシミュレーションしていた。
まだ、2人をゴミと言ったあの言葉を撤回してもらっていない。
帰宅した直樹は、机に向かいながら父の帰りを待っている。
が、いつもの時間になっても、父は帰って来ない。
……何だ。今日は残業か。
じゃあまた朝に話そう。
そう考え、床に就いた。
次の朝、直樹はいつものように目覚め、着替えようとクローゼットを開けた。
しかしすぐに気付く。
パクから譲ってもらった、あの学生服がないのだ。
あれ?
不思議に思って部屋を見回すと、机の上に学生服が畳まれて置いてある。
……あれ、寝ぼけたかな。
直樹はその学生服に袖を通して、……そして違和感。
ズボンにいつものダボダボ感がない。
「!?」
制服は直樹が寝ている間に、新しいものに変わっていた。
直樹はそこでハッと気付く。
走って階段を降り、リビングのドアをバンッと開けると、そこには母がいた。
「お母さん!お父さんはどこですか!」
「お父さんなら今日はもう出勤しましたよ?どうしたんですか、直樹さん」
その言葉を聞いた直樹、今度はキッチンにいるお手伝いの土井さんに駆け寄る。
「土井さん!何かお父さんに頼まれたんじゃありませんか!?僕の学生服がないんです!知りませんか!?」
土井さんの両肩を掴み、すごい剣幕で捲くし立てる。
そんな直樹に、土井さんは言い難そうに口を開いた。
「……申し訳ございません、直樹さん。お父様に申し付けられまして……」
そう言いながら、玄関の方をチラチラ見ている。
「………ッ」
直樹は裸足のまま玄関を飛び出し、ゴミ置き場へと走った。
全速力で。
そこで見つけたのは、紙の包み。
バリバリバリッ!!
急いで破り開けると、中にはパクからもらった学生服が押し込まれている。
「!!」
それを抱きしめ、直樹は吼えた。
「ちくしょう!!!」
その言葉は、父に対するもの。
直樹は学生服を持って部屋へと戻り、それに着替えた。
……俺はもう、これから朝食を食べずに登校する。
お父さんとは、しばらく顔を合わせない!
その日の夜から、直樹は学生服を抱いて眠るようになった。
それが今の直樹にできる、唯一の抵抗。
今の直樹は、父から逃げることしかできないのだ。




