あなたのフィギュア
気が付いたら意識が目覚めていた。視界が開け、世界を確認することができる。私は誰かの部屋にいるようで、私のいる向こう側、つまり正面に大きな本棚があった。本棚にはたくさんの漫画がぎゅうぎゅうに詰まっている。
私は動こうとした。だが体はびくともしない。
一体私は何故ここにいるのか。どうして体は動かせず声は出ないのか。どうして突然意識が目覚めたのか。どんなに時間をかけて考えても分からなかった。
すると遠くから足音のようなものが鳴り響いた後、すぐ扉が開く音が聞こえた。
「ただいま、きゅえりん!」
ドアが開かれると同時に、背の小さな細身の少年が姿を現した。彼は黒縁の丸い眼鏡をかけていて、明るい笑みを浮かべていた。
彼は私を見ている。そして、私もまた彼を見ている。
「きゅえりんはやっぱりかわいいなぁ。見ているだけで癒されるよ」
『きゅえりん』とは私の名前なのだろうか。彼はじっと私を見つめながら、何度もそう呼ぶ。
この場所は彼の部屋なのだろう。だが、一体何故私は彼の部屋にいるのだろうか。何故彼の部屋でこうしてじっと立ち尽くしているのだろう。
「さて、宿題をやらないと・・・!」
彼はそう言って私の視界から消えてしまった。おそらく、私が見えない場所に彼は行ってその宿題とやらをするのだろう。
私はそう結論付けた後、意識を再び漫画の立ち並ぶ本棚へ向けた。
とある漫画が目に留まった。それは『魔法少女きゅえりん』と呼ばれる作品だ。私と同じ名前のその作品に私は心なしか興味を惹かれていた。
「宗助、早く起きなさい!」
朝が来た。私は眠ることなく、ただ段々とこの部屋が暗くなっていく様を、そして明るくなっていって朝を迎える様を眺めていた。私に眠気というものはない。彼にはあるのだろう。ならば、私は何者だ。
「もう起きてるってば!」
『宗助』。それが彼の名なのだろう。私はきゅえりん。彼は宗助。名前は覚えた。
彼は紺色の制服を着ていた。制服は冬用のものだろう。生地が分厚く見える。
彼が私の視界に入った。
「きゅえりん、行ってくるね」
彼は私にそう話しかけると、また視界から外れた。扉の閉まる音がその数秒後に聞こえる。階段を降りているのだろう。どたどたと足音が聞こえた。
私は考える。彼はどこに行ったのだろう。何をしにあんな恰好をしていたのだろう。
私は何も知らない。彼のことを、この世界のことも、そして何より、自分自身のことも。
かなりの時間が経って彼が帰って来た。軽快なリズムで鳴るその足音が、部屋にまで上って来る。扉が開かれる音が聞こえ、そして彼が私の視界に入った。
「きゅえりん、ただいま」
彼は満面の笑みを浮かべていた。
すると彼の母親なのだろう。一人の真面目そうな中年の女性が部屋へと入って来た。彼女は私に一瞥くれた後、宗助の方へ目線を向けた。
「初めての高校、緊張したわね」
「うん!」
「馴染めそう?」
「それはまだ分かんない」
「そう・・・」
彼は高校と呼ばれる場所に行ったのだ。その制服とやらも、そのために着て。
「それにしてもあんた、まだこのフィギュアきれいに飾ってるのね」
「当たり前だろ、だってきゅえりんは父さんがくれた僕の宝物なんだから」
「宝物、ね・・・」
母親は呟きながら私をじっくりと観察する。
フィギュア。私はそう呼ばれる者なのだろう。私は自分の姿を確認することもできない。何か身動きを取ることもできない。
私は、彼の父親に与えられた者なのだろう。彼はそう言った。
母親の視線が私を外した。彼女は最後に彼と少し話をした後、部屋を出ていく。
「母さんってば分かってないなぁ」
彼は私をじっと見つめながら呟く。
「まあいいや。僕だけが君の良さを知っていればそれでいい」
彼はそう言いながら、視界を外れて部屋の向こうへと言った。
私の意識が目覚めてからどれほどの時間が経ったのだろうか。彼と暮らしていく内に、彼のことが段々と分かって来た。
彼の名前は宗助。何かの事情で父親とは暮らしておらず、母親とだけ共に暮らしている。高校一年生。入学して早々友達を作ろうと張り切っていた。
私はきゅえりん。おそらく彼の持っている漫画『魔法少女きゅえりん』に関連したフィギュアとやらである。
私は毎日を眺めて過ごしている内、彼の笑顔が好きになった。いつも私を見て投げかけてくれるその満面の笑み。笑みの絶えない日々がずっと続いていて、私はこれからもそれが続いてほしいと思っていた。
だがそんなある日だった。
「ただいま、きゅえりん」
彼の声にいつもの元気さがない。
私の視界に彼が入って来る。彼はいつものように明るい笑みを浮かべておらず、どこか暗い、曇った表情をしていた。
彼に何があったのだろうか。そんなことさえ私は彼に尋ねることができない。
何故なら私はフィギュアであり、意識を宿しただけにすぎないのである。
「友達作り、上手く行かないなぁ」
彼はすぐに分かる苦笑いを浮かべた。
「僕ってばなんか・・・」
苦笑いすら、消えてしまう。
「なんか・・・」
彼の視線はもう、私を映していなかった。
その夜の海のような暗い感情を灯す瞳が、どうしても頭から離れなかった。
また時間が流れた。私は相変わらず動くことも喋ることもできず、ただ世界を眺めるだけの意識を宿したフィギュアであり続けた。
私はずっと考えていた。あの日彼の表情から笑みが消えた理由を、彼が言いかけた言葉の意味を。
「ただいま、きゅえりん」
彼はいつも帰って来ると私にこうやって挨拶をしてくれる。今日もそれは変わらなかった。
あの日から彼は笑顔を浮かべる回数が少なくなった。学校から帰って来た時は必ず暗い表情をしていて、部屋で漫画を読んでいる内に段々と笑顔を取り戻す。そんな日々を繰り返していた。
今日もまた同じなのだろうか。
私は視界に映る彼の顔をじっと眺めていた。
「きゅえりん。僕、きゅえりんのキーホルダーを鞄に着けていたんだ。それでクラスのとある子にきゅえりんのことを聞かれたんだ。だから僕はきゅえりんが好きだっていうことを話した。きゅえりんの良さをその子にも分かってほしかったからね。でもさ、酷いんだ。その子がまだ僕を馬鹿にするのはまだいいんだけど、きゅえりんのことまで悪く言ったんだ。だから僕はさ、言い返した。きゅえりんのことを馬鹿にされるのは許せなかったんだ」
彼は私を見て薄く微笑んだ。
「大丈夫だよね、きゅえりん。僕、ちゃんと友達できるよね」
私は彼に言葉をかけてやりたい。だがこの体はいうことを聞かない。
「はぁ・・・」
彼が大きな溜め息を吐いた。それからすぐ彼は私の視界から離れて行った。
私は考える。彼はきっと友達作りに苦労しているのだ。
だからこんなに悩んで、苦しんでいるのだ。
私に何かできないだろうか。そんなこと考えるだけ無駄なのだろうか。
なぜなら私は意識を宿しているだけに過ぎない、無力な存在なのだから。
また時間が流れた。今日は酷い雨の日で、部屋に雨音と時計の秒針が進む音ばかり木霊していた。
「ただいまきゅえりん」
彼の声は今までにないくらい、気力をなくしていた。
私を見ることもせず彼は目の前を通り過ぎて行った。
ベッドに倒れ込む音が聞こえる。私は何もできず、目の前に立ち聳える本棚を眺めていた。
時間ばかりが流れていく。彼は母親に支度をするよう呼びかけられても部屋を出なかった。彼はとうとう部屋にまでやって来た母親と盛大な言い合いをした。
「学校にはもう行きたくない」
「どうしてよ。いいから早く行きなさい」
「行きたくないって!!」
彼の怒声が部屋に響いた。母親とそれからも同じような言い合いを続ける。
最終的に母親の方が折れて、彼が学校を休むことになった。
「きゅえりん・・・」
私の視界に彼の顔が映る。彼は泣いていた。
「僕、もう無理だよ・・・学校になんて行けない。友達作りなんて、はなから無理だったんだよ」
彼に言葉をかけたい。だが何もできない。
「きゅえりんだけは、僕の味方であってくれるよね」
そんなの当たり前だ。私はあなたのフィギュアなのだから。
「はぁ・・・」
彼はまた大きな溜め息を吐いて、ベッドへと倒れ込んだ。
「僕、また学校に行ってみるよ」
学校を休む日々が続いたある日だった。彼は突然母親にそう言った。
「あら・・・良かった。頑張ってね」
母親は嬉しそうにそう言った。
それから彼はすぐに部屋を飛び出した。
時間が流れ、彼はようやく帰って来た。私は彼に笑顔が戻ることを期待していた。今度こそ、彼に『友達作り』を成功して欲しかったのだ。
私は彼の素直で、誰に何と言われようと自分の『好き』を曲げない強い意志を持っているところが好きだ。だからこそ、いつか彼が報われる日が来てもいいと思っていた。
私は願った。私に意識を宿した存在がいるのならば、彼に笑顔を戻して欲しいと。そう強く。
今日は彼の帰りがいつもよりちょっとだけ遅い。部屋の扉が開かれる。視界に入った彼の顔は、酷い有様だった。
「ただいま、きゅえりん・・・」
彼の頬に痣ができていた。一体何があったのだろうか。制服も土に汚れていて、痛々しい見目をしている。
私は今すぐにでも尋ねたかった。どうしてそんなに傷だらけなのかと。
「母さんにばれないようにしなくちゃ。せっかく学校に行けた日なのに、こんな格好じゃ、ね・・・」
彼は弱々しく笑った。
「きゅえりん、僕、頑張るよ。どんなに酷いことをされても、卒業だけはしてやる。絶対」
彼の笑顔が戻った。しかし、私は素直に喜べなかった。
この笑顔の理由が、どんなに過酷なものであるのかを悟ったからだ。
私の視界から彼が消える。彼は「いてて」と呟きながら部屋を出て行った。階段を降りる音が聞こえる。彼の母親は今日、仕事で夜遅くまで帰ってこないのだった。
さらに時間が流れた。彼はあの日のような酷い怪我を負うことはなかったが、明らかに元気がなくなっていた。
少し痩せたのか、頬がこけている。
「きゅえりん、ただいま」
彼は柔らかく笑みを浮かべた。
「今日こそはと思って、あいつらに言い返したんだ。そうしたらね、僕のお弁当、窓の外に投げ捨てられちゃってさ・・・」
彼はお腹を鳴らす。おそらく手を付けていない状態の弁当箱ごと、外へ投げ捨てられてしまったのだろう。
「母さんになんて言ったらいいんだろう。お弁当、机から落として壊しちゃったとか、そう言うしかないかな」
彼は私をじっと見つめる。まるで、私の返答を待っているかのように。
「もちろん、ちゃんと全部食べたって説明するよ。食べた後に、机から落としちゃったって。この前の痣もさ、体育の授業で走ったら思い切り転んだとか、そんな説明してさ」
彼はまた私をじっと見つめる。
「きゅえりん・・・」
彼が小さく私の名を呟く。
それから彼は何も言わずに私の視界から去った。彼は階段を降りて行ったようで、その足音が大きく聞こえた。
「きゅえりん」
彼はまた痣を作って帰って来た。彼の通学鞄と制服が水に濡れている。
「今日、学校にスマホを持っていかなくて良かった。さっき帰りにさ、バケツ一杯の水をかけられたんだ」
彼は自身を嘲笑するように笑った。
「きゅえりん・・・」
彼が私の名前を呼ぶ。その声に、もう力はない。
突然、彼が涙を浮かべた。彼の目から溢れんばかりに流れ落ちていく。
「もう、限界だよ・・・もう、無理だよ・・・どうやって頑張るって言うんだよ・・・!!」
彼が泣きながらそう悲痛に声を上げる。
「もう、死にたい」
その瞬間、彼がはっと目を見開いた。
「そうだ・・・死んでしまえばいいんだ。僕、なんで気が付かなかったんだろう」
私は彼を呼び止めようと全身に力を込めた。だが体はびくともしない。
私は結局何もできず、彼が視界から離れていく様を眺めていることしかできなかった。
「きゅえりん、やっと今日が来たよ」
部屋が暗い。今日は日曜日で学校は休み。彼はやけに優しい微笑を湛えていて、私を映すその眼差しもまた穏やかだった。
「見て、これ。ロープ。ネットで買ったんだ。ちゃんと分厚くて強靭で、人間の体重なんかじゃそう簡単に千切れないよ」
彼の手元にロープがあった。彼はそれを輪っか上に結んでいる。
「きちんと結び方も調べたし、死ぬための準備もした。もう僕はこれで――」
彼は言いかけたところで、涙を浮かべた。
「嫌だ・・・」
彼の声が震える。
「嫌だよ・・・死にたくなんて、なかった・・・」
彼はロープをぎゅっと力強く握る。
彼の身長はあの本棚よりも低い。彼は少し前に本棚から漫画を取り除き、漫画を乗せていた板を全て取り外していた。
私は彼の行動を止めることはできず、ただ見ているしかできなかった。
「ごめんなさ、い・・・母さん・・・父さん・・・僕がこんなに、弱くて・・・」
私は必死に全身へ力を込めた。今こそ動いてほしい。彼を止めなければならない。私に意識を与えた神のような存在がいるのであれば、私の願いを聞き入れてほしい。
私は彼を助けるために意識を与えられたのだろう。そうに違いない。だがそれならばどうして、今になっても私に声を与えるどころか、身動きの一つも取らせないのか。
どうして。どうしてなの。
私は、宗助を助けたい。
宗助は、私の・・・。
宗助・・・。
今になって私は思い出した。
かつて私は彼の父親に買われてこの家へやって来た。『魔法少女きゅえりん』という作品に登場する私は、宗助の手元に運ばれた。彼の掌の温もりを、私は覚えている。
彼は幼少期、周りの子から「男なのにどうして女向けのアニメが好きなんだ」とからかわれていた。だが決して彼は自分の『好き』を曲げなかった。
私を持って、私を掌で包んで、私を丁重に扱って、まるで本当の友達のように一緒に遊んで――いや、本当の友達だった。
宗助と一緒にいることができて、私は幸せだった。
やはり間違いない。私が意識を宿したのは、きっと彼を守るためだ。
だからこそ、私は全力を振り絞らなければならない。私が彼を助けるんだ。
「だ、め・・・」
私の口からようやく声が漏れ出た。しかし、彼には届いていない。
彼は本棚のねじのでっぱりにロープの上部を引っかけた。輪っかが本棚の壁に沿って宙でぶらぶらと揺れる。
彼は首にロープをあてがう。
「そう、すけ・・・だ、め・・・!!」
声は出る。だが彼に届くほど、大きな声は出ない。
「そ、うすけ・・・!!!!」
その瞬間、彼の目線が私を映した。彼が私を手に取る。彼の柔らかくて温かな掌の感触は、今でも変わらない。
「きゅえりん・・・最後くらい、君といたい」
彼は私を手に持ったまま、ロープに首をかけた。彼の全体重の負荷がかかったロープが、ぎしりと軋む。
「父さん・・・」
彼が小さく呟く。
私はもう一度、彼の行動を止めるべく全力で口を開いた。
「宗助・・・!!!」
瞬間、彼の体が震えた。彼は驚いたように私を見つめる。
「きゅえりん、今の声は、君が・・・」
しばらく首を吊っていた彼の手に、力はもう入らなかった。彼の手から力が抜け、私は床に落ちる。
長年彼の側にいた私の体は、簡単に壊れてしまった。
意識が遠のいていく――。私は宗助を助けることができたのだろうか。
私は彼のために、役目を果たせたのだろうか――。
彼の掌の温もりも、柔らかな感触ももう何も感じない――。




