第2話:20年の空白と侮り
翌日の夜。夕食後のリビングには、相変わらずテレビの音と男たちの笑い声が響いていた。
私はダイニングテーブルの端で、久しぶりに開いたノートパソコンに向かっていた。画面に映し出されているのは、求人サイトのエントリーフォームだ。
「あれ、母さん何やってんの? パソコンなんて珍しいじゃん」
ソファでスマホをいじっていた翔太が、私の背後から画面を覗き込む。
「……就職活動よ。少し、外で働こうと思って」
私は手を止めずに答えた。
「へえ、パート? ついに暇を持て余したか」
翔太は鼻で笑うと、冷蔵庫から麦茶を取り出しながら言った。
「まあ、ボケ防止にはいいんじゃない? スーパーのレジ打ちとか? それとも品出し?」
彼の中では、「専業主婦の母ができる仕事」=「単純労働」という図式で固定されているらしい。
そこへ、隆も会話に入ってくる。
「おいおい、無理するなよ。お前、社会人経験なんて大昔の話だろ? 今の世の中、パソコン一つまともに使えないと相手にされんぞ」
「大丈夫よ。これでも昔は使っていたから」
「昔って、Windows95とかの時代か? ハハッ、化石だな」
隆は面白そうに笑い、自分のグラスをテーブルにコツンと置いた。おかわり、の合図だ。私は一度作業を中断し、焼酎の水割りを作って差し出す。
「まあ、いい心がけだ。俺の稼ぎだけで十分だが、お前がどうしても小遣い稼ぎをしたいって言うなら止める理由はない。ただし条件がある」
隆は水割りを一口飲み、尊大な態度で人差し指を立てた。
「家のことは疎かにしないこと。飯のグレードは下げないこと。部屋は常に綺麗に保つこと。それが守れる範囲でやるなら、社会勉強として許可してやるよ」
許可。
その言葉に、また一つ、私の中で何かが冷たく沈殿していく。
結婚前、大手製薬会社のMR(医薬情報担当者)としてバリバリ働いていた隆よりも、大学病院の薬剤師だった私の方が年収が高かった事実を、彼は完全に忘却の彼方に追いやっている。
あの時、「男のプライド」を傷つけないよう、私が給与明細を隠し、結婚を機に大人しく家庭に入った配慮は、すべて無駄だったようだ。
「……ええ、わかったわ。約束する」
私は穏やかに頷き、再びパソコンに向き直った。
画面の中で私が応募ボタンを押したのは、時給千百円のスーパーのレジ打ちではない。
時給二千五百円以上、経験者優遇の『調剤薬局』の求人だ。
◇
数日後、私は駅前のビルにある調剤薬局の面接室にいた。
面接官は、五十代くらいの局長と、三十代の管理薬剤師の男性だ。
「藤堂さん、履歴書拝見しました。……正直、驚きました」
局長が眼鏡の位置を直しつつ、私の履歴書と免許証のコピーを見比べる。
「大学病院での勤務経験が七年。その後、二十年のブランク、ですか」
「はい、そうです」
「失礼ですが、今の薬学の進歩は速い。二十年前の知識では、正直現場では……」
言葉を濁す局長。当然の反応だ。新薬は次々と出るし、ジェネリック医薬品の普及率も制度も、二十年前とは別世界だ。
「おっしゃる通りです。ですが」
私は背筋を伸ばし、真っ直ぐに局長の目を見つめた。
「ブランクの間、何もしていなかったわけではありません。毎月の『月刊薬事』には目を通していましたし、改訂された薬機法についても個人的に勉強を続けてまいりました。特に、在宅医療における薬剤師の役割の変化については、重点的に把握しております」
スラスラと、しかし落ち着いた口調で専門用語を交えて話す私に、若い管理薬剤師の方が身を乗り出した。
「では、今の高齢者医療で問題になっているポリファーマシー(多剤併用)についてはどうお考えですか? もし、六種類以上の薬を処方されている患者様が、飲み残しが多いと相談してきたら」
それは、試すような質問だった。
私は即答する。
「まずは残薬の確認と整理を行います。その上で、医師に処方照会をかけ、一包化の提案や、配合剤への切り替えによる服薬数の減少を提案します。患者様のコンプライアンス向上を最優先に考えます」
一拍の静寂。
管理薬剤師が、ほう、と感嘆の息を漏らした。
「……現役の若手より、よほど的確な答えだ」
局長の表情も、疑念から興味、そして評価へと変わっていくのが見て取れた。
「藤堂さん。即戦力とは言いませんが、その学習意欲と基礎知識があれば、勘を取り戻すのは早いでしょう。……何より、その落ち着きは得難い」
局長は履歴書の上に赤ペンで大きく花丸を書くような動作をした。
「採用です。来週から来られますか? 時給は規定の最高額からスタートさせてもらいます」
◇
帰りのスーパーマーケット。
私は特売の豚肉ではなく、少し良い牛肉をカゴに入れた。
お祝いのためではない。これは、これから始まる戦いのための「兵糧」だ。
スマホのカレンダーアプリを開く。
就業開始日に印をつける。
それは同時に、私が「ただの母親」「都合の良い妻」を卒業するカウントダウンの始まりでもあった。
帰宅すると、リビングにはまだ誰もいない。
静かな部屋で、私は採用通知のメールをもう一度読み返した。
社会が私を必要としてくれた。
その事実は、夫や息子からの二十年分の侮蔑の言葉を、ちっぽけなノイズへと変えてくれるのに十分だった。
「さて、と」
私はエプロンを締め直す。
最後の晩餐……ではないけれど、彼らが甘えられる時間はあと少し。
せいぜい、今のうちに「当たり前の日常」を享受しておくことね。
私は冷たい微笑みを浮かべ、包丁を握った。




