第10話:鐘は誰がために
月曜日の朝。
私の新しい門出を祝うかのような快晴だった。
午前九時きっかりに到着した引越し業者のスタッフたちは、プロフェッショナルな手際で私の荷物を搬出していく。
私の衣類、私が買った家具、私の蔵書。
それらが次々とトラックに吸い込まれていくたびに、リビングにはぽっかりとした「空白」が生まれていく。
その空白の横で、隆と翔太は亡霊のように立ち尽くしていた。
隆は会社を休み、翔太も大学に行こうとしない。彼らは最後の最後まで、私が翻意することを期待していたのかもしれない。あるいは、現実を受け入れられず、ただ呆然としているだけか。
「……本当に行くんだな」
すべての荷物が運び出された後、隆が絞り出すように言った。
ガランとした部屋に残されたのは、彼らの薄汚れたソファと、埃を被ったテレビ、そして彼らが積み上げたゴミの山だけ。
私の気配が消えた途端、この家は「生活の場」から完全な「廃墟」へと成り下がったように見えた。
「ええ。弁護士から連絡が行くから、対応をお願いね」
私は玄関で靴を履き、振り返る。
情が湧くかと思った。二十年暮らした家だ。
けれど、胸に去来したのは、古い角質が剥がれ落ちたような清々しさだけだった。
「母さん……」
翔太が縋るような目で見つめてくる。
その目は、まだどこかで「誰かがなんとかしてくれる」と思っている子供の目だ。
私は最後に、この愚かで愛しい息子に、一つだけ教育を施すことにした。
これは、母としての最初で最後の、心からの贈り物だ。
「翔太」
「……なに? やっぱり残ってくれる?」
「いいえ。……これから先、もしあなたに愛する人ができて、結婚することがあったら」
私は彼の目を真っ直ぐに見据えた。
「その人を、私のようにしないでね」
翔太が息を呑む。
「あなたがお父さんの真似をして、奥さんを『お母さん代わり』にしようとしたら……その人は私のように逃げ出すか、あるいは私のように『心を殺して』あなたを軽蔑するようになるわ」
それは呪いの言葉であり、未来への祈りでもあった。
彼がこの地獄のような半年間から何かを学んでいれば、救いはあるかもしれない。学ばなければ、彼は隆と同じ末路を辿るだけだ。
「じゃあ、元気で。……さようなら」
私は隆には視線もくれず、ドアを開けた。
背後で「聡子!」「母さん!」と叫ぶ声が聞こえたが、私は容赦なく重い鉄の扉を閉めた。
ガチャン、と。
重厚な金属音が響いた。
その音は、私にとっては新しい人生の幕開けを告げる鐘の音のように聞こえた。
彼らにとっては、弔鐘に聞こえたかもしれないけれど。
◇
新しいマンションは、駅からは少し離れているが、セキュリティのしっかりした新築だ。
引越し業者が帰り、私は段ボールの山の中で一人、フローリングに座り込んだ。
シーンとしている。
誰の足音もしない。
「飯はまだか」という声もしない。
テレビの不快なバラエティ音もしない。
あるのは、私の呼吸音と、窓の外から聞こえる微かな街の喧騒だけ。
「……ふう」
私は近くの段ボールから、一本の缶ビールを取り出した。
『ザ・プレミアム・モルツ』。
かつて、夫のためだけに買い、夫の機嫌を取るためにグラスに注いでいた黄金色の液体。
私はそれを、自分のためだけにプシュリと開けた。
グラスなんかいらない。
私は缶のまま、グビリと喉に流し込んだ。
「…………」
ホップの華やかな香りと、深いコクが口いっぱいに広がる。
喉を通り過ぎた炭酸が、五臓六腑に染み渡っていく。
「おいしい……」
思わず声が漏れた。
今まで飲んだどんな高級ワインよりも、どんな祝杯よりも、今のこの一本が最高に美味しい。
ふと、窓の外を見る。
夕暮れの空に、一番星が光っていた。
誰かのために時間を切り売りし、誰かの顔色を窺い、自分の心を削って磨り減らす日々は終わった。
明日からは、私が稼いだお金で、私が食べたいものを食べ、私が眠りたい時に眠るのだ。
少し寂しいかって?
まさか。
この静寂こそが、私が二十年かけて勝ち取ったトロフィーなのだから。
私はもう一口、自由の味を噛み締めながら、誰に言うともなく呟いた。
「さあ、私の人生、これからが本番よ」
夕闇の中、どこかの教会だろうか。遠くで鐘の音が鳴った気がした。
それは誰のために鳴ったのか。
少なくとも今は、私一人のために鳴り響いているように思えた。
(了)
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
彼女の新しい人生に幸あれ、と思っていただけましたら、ぜひ下にある「☆☆☆☆☆」から評価をいただけますと、作者として何よりの喜びです。
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また別の物語でお会いしましょう!




