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家事は誰がために鐘は鳴る ~元薬剤師の専業主婦が、夫と息子を静かに捨てるまで~  作者: 品川太朗


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第1話:食卓の不協和音

全10話、完結まで執筆済みです。

モラハラ夫と息子を、元薬剤師の妻が知識と経済力で静かに「損切り」するお話です。

最後まで安心してお楽しみください。



 午後七時。リビングの時計が時報を告げると同時に、玄関の鍵が開く音がした。


「ただいまー。あー、腹減った」


「おかえりなさい」


 キッチンから顔を出し、私は努めて明るい声をかける。


 帰ってきたのは、大学二年生になる息子の翔太だ。手に持ったスマホから視線を外さず、靴を脱ぎ捨ててリビングへと入っていく。揃えられた靴、整頓された廊下。それが当たり前だと思っている背中だ。


 続いて数分もしないうちに、夫の隆も帰宅した。


「……ただいま」


「おかえりなさい。お疲れ様でした」


 隆は無言でジャケットをソファに放り投げ、ネクタイを緩めながら食卓につく。


「ビール」


 主語がない。述語もない。ただの名詞。

 私は冷蔵庫からよく冷えた『プレミアム・モルツ』を取り出し、グラスと共に彼の前に置く。私の節約の結晶である発泡酒ではなく、彼専用のビールだ。


 今日の夕食は、手間のかかるロールキャベツと、カボチャのポタージュ。それに三種類の副菜を添えている。

 栄養バランス、彩り、塩分濃度。全て計算し尽くされた食卓だ。薬剤師としての知識は、今や家族の健康管理という名の「無償労働」にのみ使われている。


「いただきます」


 翔太が箸を伸ばし、ロールキャベツを一口で頬張る。


「ん、うめ。やっぱ飯は家が一番だな」


 その言葉に、少しだけ心が緩む。美味しいと言ってくれるなら、手間をかけた甲斐もあるというものだ。

 しかし、続く言葉がその空気を凍らせた。


「でもさ、母さんっていいよな。毎日こんな美味いもん作って、昼間はのんびりテレビ見てんだろ? 俺ら学生なんて課題に追われてヒイヒイ言ってるのにさ」


 カチャン、と。

 私の中で何かのスイッチが切り替わる音がした。いや、音がしたというより、回路が冷たく遮断された感覚に近い。


「のんびり、に見える?」


 私はスープをよそいながら、穏やかなトーンで問い返す。怒ってはいけない。感情的になれば、彼らの思うツボだ。


「だってそうだろ? 掃除と洗濯なんて午前中で終わるじゃん。午後はフリータイムだろ? 実質ニートと同じっていうかさ、生産性がないっていうの?」


 翔太は悪気なく笑う。純粋無垢な悪意。彼にとってそれは誹謗中傷ではなく、「事実の確認」なのだ。二十歳にもなって、目の前の食事が湧いて出てくる魔法だとでも思っているのだろうか。


「翔太、言い過ぎだぞ」


 ビールを煽っていた隆が口を挟む。ああ、まだ夫には理性が残っていたか。そう期待した私が愚かだった。


「お母さんだって、一応家のことをやってるんだ。……まあ、俺が食わせてやってるからこそ出来る『特権』ではあるがな」


 隆は鷹揚に頷き、私に視線を向けた。


「聡子、お前も感謝しろよ? 今の時代、専業主婦なんて優雅な身分、俺の稼ぎがなきゃ維持できないんだからな」


「……そうね。感謝しているわ」


 私はにっこりと微笑んだ。

 口角を上げ、目を細め、良妻賢母の仮面を完璧に貼り付ける。


 けれど、テーブルの下で握りしめた拳の中には、冷たい汗が滲んでいた。

 悔しいのではない。

 悲しいのでもない。

 ただ、底知れぬ「徒労感」が私を襲っていた。


 私がかつて、大学病院の薬剤室で分刻みの調剤に追われていたことなど、彼らは知らない。

 隆との結婚が決まった時、私の年収の方が彼より百万円以上高かったことも、知らない。

 彼のちっぽけなプライドを守るために、私がキャリアを捨てて家庭に入ったことなど、今の彼らの記憶には欠片も残っていないのだ。


 ◇


 食事が終わり、二人がリビングでバラエティ番組を見て笑っている間、私は一人キッチンで皿を洗う。

 排水溝のネットに詰まった野菜くず。油で汚れたフライパン。

 リビングからは楽しげな笑い声が聞こえてくる。まるで、私という人間がそこには存在していないかのように。


 洗い物を終え、手を拭いた私は、キッチンの隅にある自分専用の引き出しを開けた。

 そこには家計簿や領収書と一緒に、一枚の革製のケースがしまわれている。


 そっと取り出し、開く。


 ――薬剤師免許証。


 氏名の欄には、旧姓ではなく『藤堂聡子』と記載されている。更新の手続きは欠かしていない。知識のアップデートも、隠れて続けてきた。


 指先で、国家資格の重厚な証書をなぞる。

 二十年のブランク。四十九歳という年齢。

 世間一般で見れば、再就職は厳しいと言われる条件かもしれない。


 でも。


「……そろそろ、いいかしら」


 小さな呟きは、誰に聞かれることもなく換気扇の音に吸い込まれていった。

 リビングの笑い声が、ひどく遠くに聞こえる。


 私は免許証をパタンと閉じると、いつもの場所へ丁寧に戻した。

 その瞬間、私の心の中で、彼らは「愛すべき家族」から、「静かに処理すべき案件」へと書き換えられたのだった。

お読みいただきありがとうございます。


妻の静かな怒りに火がつきました。

次回、20年のブランクを持つ専業主婦が、意外な行動に出ます。


※完結まで一気に投稿していきます。

面白そうだなと思っていただけたら、ぜひブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです!

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