第5話 更新料より婚姻届
2026年1月4日。
明日から仕事始めという現実に日本中が憂鬱なため息をついている夜。
蓮のマンションのリビングにも、終わりを告げる空気が漂っていた。
「……これで、全部です」
結菜が、蓮に貸していた『着る電気毛布』を丁寧に畳み、キャリーケースに収める。
ジッパーを閉める音が静かな部屋にやけに大きく響いた。
「お世話になりました。出会った日も含めると十日間。ほんとに夢みたいに楽しかったです」
結菜は努めて明るく振る舞っていたが、その笑顔が寂しさで歪んでいることを蓮は見逃さなかった。
彼女が帰れば、この部屋はまた、ただの広い箱に戻る。無機質な静寂と冷え切った空間に。
今までなら「それが平常運転だ」と割り切れたはずだ。だが、今の蓮の脳内では結菜のいない未来のリスク評価が「許容不能」の警告を出し続けていた。
「結菜さん」
玄関に向かおうとした彼女を蓮は呼び止めた。
「帰る前にこれを見てくれませんか」
ダイニングテーブルの上の、スリープ状態だったPCを起動する。
「え……?」
結菜が不思議そうに画面を覗き込む。
そこに表示されていたのは、『2026年度以降 長期共同プロジェクト計画書(案)』という、ビジネス文書のようなタイトルのスライドだった。
ページをめくると、二人が同居を継続した場合の経済効果、家事分担の最適化フロー、そして老後の資産形成シミュレーションまでが完璧なグラフで可視化されている。
「相沢さん、これ……」
「最初はただのコスト削減が目的でした」
蓮はモニターから視線を外し、結菜の方へ向き直った。心臓が早鐘を打っているが、逃げるわけにはいかない。一歩、彼女に近づく。
「でも、計算が狂いました」
蓮は真剣な眼差しで、まっすぐに結菜を見つめた。
「どれだけ効率的な生活より、あなたが隣で笑っていることの方が、今の僕には価値が高い」
息を飲む結菜の前で、蓮は震える手を握りしめ、魂からの言葉を紡ぐ。
「……結菜さん。このプロジェクト、一生更新させてくれませんか」
部屋に沈黙が落ちた。エアコンの稼働音だけが聞こえる。
結菜はモニターのグラフと、目の前の不器用な男を交互に見た。
胸の奥が熱いもので満たされていく。
この数日間を思い返す。
――無言でいても気詰まりしない、空気のような心地よさ。
――私の作った適当な料理を、文句一つ言わず「天才だ」と食べてくれる誠実さ。
――私の知らないことをたくさん知っていて、それを私のために惜しみなく使ってくれる頼もしさ。
元彼といた時はいつも背伸びをしていた。「しっかりしなきゃ」「節約なんて恥ずかしい」と、自分を押し殺していた。
でも、蓮の前では違った。
半額シールを貼られた惣菜を「合理的だ」と肯定してくれた彼。
私が私らしく、自然体でいられる場所。
(ああ、私……この人の前だと無理して笑わなくていいんだ)
こんなに愛おしいと思える人はもう二度と現れないだろう。
視界が涙で滲んだ。結菜は涙を指先で拭うと、満面の笑みで答えた。
「……相沢さん、その計画書、承認します」
彼女は少し悪戯っぽく、けれど深い愛情を込めて付け加えた。
「ただし、納期は『死ぬまで』ですよ?」
その言葉を聞いた瞬間、蓮の表情がくしゃりと崩れた。安堵と歓喜が入り混じった、子供のような笑顔だった。
「……了解しました。納期厳守で善処します」
蓮が腕を広げ、結菜を抱きしめる。
温かい。電気毛布よりも、暖房よりも、ずっと芯まで温まる体温。
2026年1月4日。
二人の「お試し期間」は終了し、永遠のパートナーとしての契約が結ばれた。
***
翌朝。
雲ひとつない冬晴れの空の下、二人は並んでマンションのエントランスを出た。
スーツ姿の蓮とオフィスカジュアルの結菜。
これからそれぞれの職場へ向かい、仕事始めを迎える。だが、その足取りは軽い。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。……あ、区役所、昼休みに待ち合わせでいいですか?」
「はい。婚姻届、忘れずに持って行きます」
何でもない業務連絡のように会話を交わし、二人は顔を見合わせて吹き出した。
手にはまだ指輪はない。けれど、繋いだ左手には確かな温もりがある。
物価は高いし、社会は不安定だし、未来には不安がいっぱいだ。
それでも、二人なら大丈夫。
最強のコスパと、最高の愛があれば、どんな冬だって乗り越えられる。
「よし、稼ぎに行きますか!」
「はい、未来への投資ですね!」
二人は清々しい風の中、新しい一年へ――そして新しい人生へと、力強く歩き出した。
―完―




