第1話 平日の聖夜と半額シール
2025年12月25日。
21時を回った東京の気温は4度を下回り、ビル風が容赦なく体温を奪っていく。
街を行き交う人々は浮かれたクリスマスムードの余韻を残す幸福なカップルか、あるいは年末の業務に追われて死んだような目をしている会社員の二極化が進んでいた。
相沢蓮は間違いなく後者だった。
32歳、ITエンジニア。フルリモート推奨の会社だが、今日はサーバーの緊急メンテナンスで出社を余儀なくされた。
冷え切った指先をコートのポケットに突っ込み、最寄り駅近くのスーパーに滑り込む。暖房の効いた店内に入ると、眼鏡が一瞬だけ白く曇った。
(チキン……いや、もうないか)
物価高騰が叫ばれて久しい昨今、独身の一人暮らしにとって「定価」は敵だ。蓮の狙いはクリスマス当日の夜に発生する「売れ残り」の半額シールのみ。
惣菜コーナーへ早足で向かう。
棚はあらかた空っぽだったが、奇跡的に一つだけ、ローストチキンのパックが残っていた。
しかも、店員がちょうど「半額」の黄色いシールを貼り終えた直後だ。
——最適解だ。
蓮が手を伸ばした、その時だった。
「あ」
右側から伸びてきた白い手と、蓮の手がパックの上で触れ合った。
驚いて顔を上げると、そこには女性がいた。
ベージュのコートに柔らかそうなマフラー。年齢は自分と同じくらいだろうか。仕事帰りなのだろう、オフィスカジュアルな服装だが、その表情には隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。
「……あ、すみません」
女性がパッと手を引っ込めた。
「どうぞ、譲ります」
「いえ、僕も今来たところなので」
蓮も反射的に手を引っ込める。譲り合いの精神は美しいが状況はシビアだ。
目の前には半額になった照り焼きチキンが一つ。定価980円が490円。
沈黙が落ちた。店内の有線放送では『ラスト・クリスマス』が軽快に流れているが、二人の間の空気は重い。お互いに「譲りたい」という善意と「でも490円でこれが食べられるなら逃したくない」という本音が拮抗しているのが分かった。
「あの...」
先に口を開いたのは彼女の方だった。
その女性は少し戸惑いながらも、意を決したように言った。
「これ、一人で食べるには少し大きくないですか?」
確かに、ファミリー向けのサイズだ。蓮の合理的な脳が同意する。
「そうですね。カロリーオーバーかつ、翌日に持ち越すと味が落ちるリスクがあります」
可愛げのない返答をしてしまった、と蓮は後悔したが、彼女は意外にもくすりと笑った。
「ふふ、そうですね。リスク回避、大事です」
そして彼女はとんでもない提案をした。
「もしよかったら、半分こしませんか? イートイン、空いてますし。私、フードロスが出るのが一番嫌なんです」
蓮は瞬きをした。
見ず知らずの他人と、クリスマスの夜に、スーパーのイートインで半額チキンを分ける。
常識的に考えれば「なし」だ。
だが、蓮の思考回路は「あり」と弾き出した。割り勘なら245円。経済的メリットが最大化される。何より、彼女の笑顔に冷え切った心が少しだけ反応していた。
「……合理的ですね。賛成です」
***
10分後。
電子レンジで温めたチキンをプラスチックのナイフで切り分けながら、奇妙なクリスマス会が始まった。
「私、小野結菜といいます。近くの派遣会社で働いてます」
「相沢蓮です。そこのマンションに住んでます」
缶チューハイ (もちろんセール品)と、ノンアルコールビールで乾杯する。
一口食べたチキンは冷めた体を温めるには十分すぎるほど美味しかった。
「はあ……生き返る」
結菜が幸せそうに息を吐く。
「今年は電気代が怖くて、部屋の暖房もろくにつけてなくて。会社かスーパーにいる時が一番温かいんですよね」
「分かります」
蓮は深くうなずいた。
「僕もダウンジャケットを着て仕事をしています。光熱費の請求を見るのがストレスで」
「ですよね! 物価ばっかり上がって、将来どうなるんだろうって……2026年なんて来なくていいのに」
彼女の愚痴は蓮が日々抱えている不安そのものだった。
孤独と将来への漠然とした不安。それを埋めるための、ささやかな節約。
気づけば、一時間が経過していた。
話している間、蓮は一度も時計を見なかった。普段なら「無駄な時間」と切り捨てる雑談が、なぜか心地よかった。彼女の視点は堅実で、でも悲観的すぎず、どこか明るい。
「そろそろ、閉店ですね」
結菜が残念そうに立ち上がる。
「楽しかったです、相沢さん。変な誘いに乗ってくれてありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
このまま別れて、それぞれの寒い部屋に戻るのか。
蓮の中で強烈な「損失回避」のアラートが鳴った。この出会いをここで終わらせるのは、人生における重大な機会損失ではないか。
今日は12月25日。明後日からは冬休みに入る。
「あの、小野さん」
蓮は呼び止めた。心臓が不合理なほど早く脈打っている。
「もし、迷惑でなければ」
「はい?」
「年末年始、僕の部屋で『合宿』をしませんか?」
「え……?」
結菜が目を丸くする。
「暖房費も、食費も、二人でシェアすれば半分になります。部屋は……わりと広いし、Wi-Fiも速いです。あ、もちろん変な下心はありません。あくまで、コストパフォーマンスの検証として」
言い訳がましい自分の言葉に蓮は自己嫌悪しかけた。
しかし、結菜はきょとんとした後、今日一番の明るい笑顔を見せた。
「ふふ、それ、すごく魅力的ですね。……検証、お付き合いしましょうか?」
こうして、2026年に向けた、二人の奇妙で合理的なハウスシェアが決定した。




