序章/第1話 理想の崩壊 ― 現代から泥の世界へ
本作は「異世界転生」ではありながら、
剣と魔法のファンタジーではなく――
“史実の13世紀ヨーロッパ” を舞台にしています。
作者自身、中世ヨーロッパ史を長年学び、
そこに潜む「美しさ」と「残酷さ」の両方に魅せられました。
理想を求めて転生したはずの主人公が、
理想ではなく “現実” の中で生き方を変えていく物語です。
※史実補足は毎話の最後に付けています。
難しい知識は不要なので、物語と一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです。
それでは物語に入ります。
【序章 現代札幌 ― 理想と絶望】
札幌の冬は灰色だ。
白い雪は街の排気ガスで黒く濁り、
まるでこの国の現実そのもののように沈んでいる。
榊原悠真、二十八歳。
大学ではヨーロッパ史を専攻していたが、
学んだのは“理想が血で汚れる”という現実ばかりだった。
戦争。革命。信仰。
どれも「正義」を掲げながら人を殺した。
現実に疲れ、悠真は空想に逃げた。
アニメ、ラノベ、異世界転生――
そこには意味があり、主人公は世界を救う役割を持つ。
「……現代より、中世のほうが絶対マシだろ」
深夜のワンルームで、カップラーメンを啜りながら呟いた。
その言葉は、もはや祈りのようだった。
翌日。札幌市立博物館。
企画展『黒死病と中世ヨーロッパ』。
錆びた鎖、朽ちた鍬、血の染みた祈祷書。
そして、嘴のついた黒いマスク――ペスト医師の象徴。
「……これが俺の理想郷、か」
背後から声がした。
「榊原君、まだ中世に逃げてるの?」
振り返ると、大学の同級生・榊エマ。
フランス人の血を引く学芸員。
揺れるクリーム色の髪、知的な琥珀色の瞳。
「逃げてるんじゃない。理想を追ってるだけだよ」
「理想ってね、“現実を知らない人”ほど言うの」
エマは少しだけ優しく笑った。
「……その理想に、潰されないでね」
胸の奥に、その言葉が沈んだ。
照明が一瞬、明滅した。
展示ケースのペストマスクが、微かに光った。
「……今、動いた?」
「榊原君、触っちゃダメ――!」
ガラスに指先が触れた瞬間、世界が弾けた。
光の奔流の中――
金髪の女騎士が微笑んでいた。
その顔は、確かにエマに似ていた。
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【幻想 ― 理想の異世界】
夢を見た。
金色の城、青空、魔法陣。
甲冑をまとった自分は、王から剣を賜り、
隣には金髪の女騎士――“エマの顔をした理想”。
「あなたが来てくれてよかった。……私、一人じゃ戦えなかった」
差し伸べられた手を握る。
幸福が胸を満たす。
――これが俺の異世界。
世界の中心に俺がいる。
だが――空が砕けた。
金の世界は黒く崩れ、
女騎士は灰になって散った。
代わりに響いたのは、鎖の音。
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【第1話 泥の世界 ― 理想の崩壊】
――冷たい。
頬に泥が貼りつく感覚で目を覚ました。
鼻を突くのは獣の臭いと、血の鉄臭さ。
木と土で作られた壁。
藁の寝床。
隅では豚が眠っている。
「……ここ、博物館の続き……?」
本能的にそう考えたが、痛みも寒気も“現実”だった。
立ち上がろうとした瞬間――
足首で鎖が鳴った。
扉が開き、怒号が飛ぶ。
「働け! 止まるな、奴隷ども!」
外には泥まみれの人々。
みな鎖で繋がれ、鞭の音が空気を裂く。
(……ここ、中世? 俺の知ってる“理想”じゃない)
泥を握る。冷たく湿り、腐臭がした。
理想と呼んだ中世は、地獄だった。
「顔を上げなさい」
鋭く澄んだ声。
振り向くと、修道服のような衣に鉄の帯を締めた女。
ナタリー・ド・ブリュノワ。領主家の監督官。
その横顔を見た瞬間、息を呑んだ。
――エマに似ている。
だが、エマよりもずっと冷たく、強かった。
「見慣れぬ顔立ちね。どこの民?」
「にほん……日本です!」
「聞いたことのない土地。……異端かもしれないわね」
周囲がざわめいた。
「魔女の使いだ」「呪い子か!」
理解されないという恐怖が、胸を締めつけた。
夜。奴隷小屋。
腐ったビールと黒パン。
「これ……水より安全ってこと……かよ……」
吐き気をこらえて飲むしかない。
(そうだ、中世では水が一番危険……頭では知ってたのに……)
隣の老人が呟く。
「強い者が祈り、弱い者が死ぬ。それがこの世さ」
悠真はかすかに笑った。
「理想も、神も……結局、勝てる奴の都合か」
エマの声が脳裏で響く。
『その理想に潰されないでね』
「……潰されたよ、エマ」
冷たい風が焚き火を揺らし、
泥の中で悠真は拳を握った。
「理想が敵なら――現実で生き残ってやる」
こうして彼の“理想郷”は地獄に変わった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第一話では、
「現代から異世界へ」ではなく、
“理想から現実へ落ちる痛み” を描きました。
主人公はチートも持たず、魔法も使えません。
それでも彼は、
“泥の世界でどう立つか”を、これから選んでいきます。
次回「第2話:飢えと祈り ― 生き延びる工夫」では、
飢餓と信仰、そして“エマに似ている”ナタリーとのすれ違いを描きます。
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【史実補足】
①「中世の水は危険だった」
井戸水は糞尿で汚染され、
菌の概念もない中世では飲めば重病になることが多かった。
→ そのため、“薄い酒・ビール”が日常の飲料だった。
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②「奴隷と農奴の違い」
中世ヨーロッパでは、
•奴隷=売買される労働力(戦争捕虜や罪人)
•農奴=土地に縛られた労働者(逃亡不可)
日本の常識とは全く違う社会構造だった。
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③「異国の者=異端扱い」
言葉が通じない、文化が違う、服装が違う――
それだけで
「悪魔の使い」「魔女」
と疑われるのが普通だった。
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④「ペスト医師のマスクは“象徴”」
現代のような医師ではなく、
信仰と占いに近い存在で、
感染防止もほとんど効果がなかった。




