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「エ、ヴァン?」
静けさを取り戻した、見渡す限りの麦畑の中。
呆然と呟いた言葉が、柔らかな風にさらわれて消えていく。
足ががくがくと奮え、立っていることもままならない。
ズルリと情けなくもその場にへたり込めば。
その音に反応したように、倒れていた黒豹の両耳がぴくりと動いた。
しなやかな筋肉が流動し、力無く横たわっていたその体がゆっくりと起き上がる。
そして。
黒豹が静かに顔を上げ、その紫色の瞳でわたしをじっと見た。
「………………っ!」
エヴァンじゃない。
エヴァンの色じゃないその瞳を見て、一瞬で悟った。
────エヴァンはもう、『ここ』にはいない。
ううん、違う。
エヴァンは最初から『ここ』にはいなかった。
ただ、『魂が繋がっている』と言われる召喚獣を通して、必要なときに意識を飛ばしていただけ。
だから動きや仕種が豹そのものだった。
日に日に眠っている時間が多くなったのも。
必要以上に喋らなくなったのも。
一瞬だけ瞳の色が変わったりしたのも。
エヴァンがずっと、死に物狂いで戦っていたから。
最初のころのように、こちらに意識を向けている余裕がなくなったから。
「………うああああ……」
息が苦しい。
ずっと我慢していた声が、喉奥から悲鳴のように漏れ出した。
両目からあふれた涙がポロポロと頬を滑り落ちていく。
「いやよ、エヴァン、行かないで」
エヴァン=アルカインなんて、大嫌いだった。
他の学友には優しい紳士な癖に、わたしの顔を見ればいつだって意地悪に笑って。
口を開けば、厭味や皮肉ばかり。
憎たらしくて。
……でも、とても責任感が強い人で。
腹が立って。
………でも、本当に困っている人は絶対に見捨てない人で。
顔をあわせるたびに喧嘩になった。
………でも、本当はずっと憧れてた。
エヴァンに追いつきたくて。
あの綺麗な金の瞳にうつりたくて。
ただひたすらにその背中をずっとずっと追いかけてきた。
────本当はずっとずっと大好きだった。
『ああ、馬鹿ね、わたし』
【元気を出して、アティ。 エヴァンさまならきっと大丈夫よ】
わたしを心配するミリアリアからの手紙。
どうしてわたしがエヴァンの出陣なんかで元気をなくすんだって、あの時は本気でわからなかったけど。
ミリアリアは知っていたのね。
わたしが気づいていなかった…………。
ううん、違う。
わたしがずっと認めたくなかった、エヴァンへの恋心を。
『ここまで追い詰められないと認められないなんて、本当に馬鹿』
そう、わたしは本当に大馬鹿者だ。
今まで一体、エヴァンの何を見てきたのだろう。
だってどう考えても、あのエヴァンが、魔物が怖いから、と代役を立ててまで逃げ回るわけがない。
出来ないなら出来ない、ときちんと告げる人なのに。
なのにそれでもエヴァンはわたしの元を訪れた。
全てが終わるまで一ヶ月ほど匿ってほしい、と言って。
全てが終わるの本当の意味はきっと。
わたしのかわりに戦場に行ったエヴァンが全てを終わらせる、まで。
ああ、この一ヶ月はエヴァンのためじゃない。
わたしの。
わたしを戦場に向かわせないための一ヶ月だった。
「うあああああ」
なのにわたしは何も知らないで、ずっとずっとエヴァンを「弱虫」と。
「臆病者」と。 そう思っていた。
実際に口に出して罵ったこともある。
なのにエヴァンは「怖いものは怖いんだよ」と肩をすくめただけ。
全部わたしを助けるためだったのに!
喉奥から、嗚咽が絶え間無くあふれて来る。
目からも涙があふれて止まらない。
こんなところに座り込んで、子供みたいだと思う。
けれど、どうしても心が泣き叫ぶことをやめてくれない。
先程の、東の空を覆い尽くすほどの巨大魔法。
ただでさえ魔力の消費が激しいあの魔法を、あんな規模で使えばどうなるか。
足りない魔力は、術者の生命力で補われる。
エヴァンがそれを知らないはずがない。
それでもエヴァンはあの魔法をつかった。
使わなければいけないほど追い詰められた状況だった。
『バイバイ』
泣きそうな顔で微笑んで告げたエヴァンの、あの別れの言葉が、何度も脳裏に浮かんでは消えていく。
「エ、ヴァン……ねえ、答えて…」
だってこの一ヶ月、エヴァンはわたしが話しかければ答えてくれた。
いつものように口元に憎たらしい笑みを浮かべて。
面倒臭そうにしながらも、ちゃんと答えてくれた。
「アティ」とそう名前を呼んでくれたのに。
なのにもう、わたしが呼んでも黒豹は答えてくれない。
────もうエヴァンはいない。
その事実に、心臓が痛いほど締め付けられた。
「ガルル…………」
どれほどの時間、みっともなく泣きじゃくっていたのか。
唐突に、涙でぐしょぐしょになったわたしの顔を、何かがべろりとナメた。
ざらっとして、暖かいものが、涙を拭うように下から上へと動いていく。
「クロ……」
わたしを慰めようとするかのように、クロがわたしの顔を一生懸命なめてくれる。
「黒豹だからクロ、だなんて。 なるほど、センスのなさは主人譲りなんだね」と呆れたように笑っていたエヴァンの様子が頭に過ぎり、また涙があふれた。
「ガルル」
一度離れたクロが、また泣き出したわたしを見て「まだ泣くの?」といわんばかりに、首を右に傾けた。
長い尻尾がわたしの足に絡みつき、時折宥めるようにポンポンと動く。
言葉はなくても、その表情と行動で、一生懸命わたしのことを慰めようとしてくれているのがわかる。
召喚獣は基本、主人にしか懐かないはずなのに。
かわいい。
エヴァンの意識が多少なりとも混じっていた時は、かわいいなんて一度も思わなかったのに。
パチリと瞬きをした途端、また涙が頬を滑り落ちていった。
「クルル……」
クロが短く喉を鳴らして、わたしの頬に頭を寄せて来る。
何度も何度も。
その艶やかな黒い毛並みを撫でているうちに。
ふと気がついた。
「召喚獣がまだ顕現してる……」
わたしは召喚術はどうしても使えなかったけれど、その仕組みは理解している。
本来別の世界に生きている召喚獣がこの世界で姿を保つには、主人の存在が絶対に必要になる。
主人の存在を通してこの世界に留まり、主人のために世界には本来ない体を形成しているからだ。
つまりエヴァンの召喚獣がまだここにいるということは。
「エヴァンはまだ生きてる!?」
あんな大規模な魔法を二回も使って無事でいるとは、とても思えなかった。
だからエヴァンはもう駄目だと決めつけた。
その身の無事を信じることもせず、勝手に諦めて、勝手に絶望して。
子供のようにみっともなく大泣きした。
『勝手に殺さないでくれるかな。 僕を誰だと思ってるの』
そう言って笑うエヴァンの声が聞こえた気がした。
気のせいだ。
わかってる。
エヴァンは『ここ』にはいない。
でももしエヴァンがここにいたら、きっとそう言う。
いつものように憎ったらしい笑みを口元に浮かべて。
わたしが死に物狂いで追いかけて来るのを待ってる。
「今に見てない。 今度こそ、その憎ったらしい笑みを消してぎゃふんといわせてやるんだから」
服の袖で涙を拭いて立ち上がった。
一瞬だけ体がフラッと揺れたが、力を入れて踏ん張った。
ここからイルイザ大森林までは、馬車で三時間ほど。
騎馬でも一時間はかかる。
けれど風魔法で速度を限界まであげて、最短距離を行けば───!
まだ間に合う。
いいえ、必ず間に合わせるわ。
「クロ! あなたの主人の元にわたしを案内して!」




