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「────その必要はないよ」
わたしの前に立ち塞がる黒豹。
その金色に輝く美しい瞳が、静かにわたしを見つめる。
「どいてよ、エヴァン!」
叫びながら横をすり抜けようとしたのに、素早く回り込まれてしまう。
早くいって、問題を解決しないと。
じゃないといつエヴァンが見つかってしまうかわからない。
『聖なる炎』だったらわたしでも使える。
エヴァンじゃなくたって………。
そこまで考えて。
ふとある事実に思い当たり、体に衝撃が駆け抜けた。
『聖なる炎』は、わたしが唯一エヴァンに勝った魔法。
そしてわたしはもう成人を迎えている。
家を継ぐ嫡男でもない。
なのに。
────なのにどうしてわたしは『強制召集』されなかったの?
魔物と戦って国を守るのは貴族の義務だ。
そこに男も女も関係ない。
有効となる攻撃手段を持っているなら、強制召集されることもある。
なのにどうして?
「…………アティ」
エヴァンがわたしの名を呼ぶ。
エヴァンはわたしよりも四ヶ月誕生日が遅い。
アルカイン公爵家の嫡男で、あらゆる方面で才能を見せる天才。
死ぬかもしれない戦場に送り込むなら、わたしの方が適任なのに。
なのに────っ。
「アティ……ごめん……」
苦しみの中搾り出したように、エヴァンがかすれた声でわたしの名を呼ぶ。
ごめん?
何を謝っているの?
恐怖で体中が震える。
もう聞きたくない。
でも聞かないわけにもいかなくて。
エヴァン、あなた今……。
「…………エヴァン……あなた今どこにいるの?」
『勇者様がついに前線に合流された』
『アティ、元気を出して。 エヴァン様ならきっと大丈夫よ』
『現在、エヴァン様が一人で全ての魔物を食い止めてくださっています』
何度も前線で戦うエヴァンの話を聞いた。
でもそっちは影武者だとずっと思ってた。
だって本物のエヴァンはずっとわたしの側にいたもの。
────でも、もしそうじゃなかったとしたら。
『向こう』が本物で、『こっち』こそが偽物だったとしたら。
エヴァンがずっとわたしの側にいたのは、情報をミスリードするためだったとしたら。
エヴァンは今……。
わたしの言葉を受けて、エヴァンはより一層苦しそうに顔を歪めた。
そして。
「アティ、ごめん。 僕は今、イルイザ大森林に……いる」
わたしが一番聞きたくない言葉を言った。
腹の底からよく分からない激情が混み上がってきて、体中が震えた。
イルイザ大森林にいる?
どうして?
「どう、して?」
あなたわたしに……。
「わたしに助けてくれって言ったじゃない」
魔物と戦うのが……。
「戦うのが怖いから匿ってくれ、って」
やりたいことも山ほどあるから……。
「戦場になんか行かないって」
そういったのに。
今までのこと全部……。
「全部、嘘、だったの?」
思いつくまま、言葉を投げつけて。
困ったような顔をして黙り込むエヴァンを、責めて、責めて。
責め続けながら、わたしは泣いた。
ボロボロと、大粒の涙が目からこぼれ落ちて行くのを止められない。
鈍くて愚かなわたしでもさすがにわかる。
本来なら、強制召集されるべきはわたしだった。
なのに、わたしには話は来ず、代わりにエヴァンが戦場へ行った。
エヴァンは、わたしの代わりに────。
「あなたわたしの代わりに戦場に行ったの?」
震える声で問い掛ければ、エヴァンは一層困ったように眉根を下げ、数秒考え込むように黙り込んだあと、観念したように大きなため息をはいた。
「………だってしょうがないじゃない? いつも僕に負けてばかりの君じゃあ、失敗してしまうかもしれないし?」
取り繕ったような、おどけたような軽い口調。
涙を拭っていたのをやめ、顔を上げれば。
いつものあの憎たらしい笑みを口元に浮かべたエヴァンが、そこにいた。
確かにその姿は黒豹なのに、その後ろに凛として立つエヴァンの姿が見えた気がした。
「君が行って失敗でもしたら、僕も後味が悪いし? その点僕は優秀だから、失敗なんてするわけないしね」
魔物との戦闘において、失敗はすなわち死を意味する。
エヴァンがそれを危惧するほど、戦況は厳しかった。
なのにそれを承知で、わたしの代わりに戦場へ行った。
死ぬかもしれない覚悟を持って戦いにでた。
やりたいことが山ほどある。
知らない人間のために命を張るなんて馬鹿みたいだ。
そういっていたのに。
「どうして……っ!」
「…………ねえ、アティ……君ってば、いっつも僕に負け続けてただろう? 僕に負けて悔しがるあの顔が、いつもいつも本当に滑稽で…………」
そこまで言って、エヴァンは思い直したように口を閉じた。
一度横にそれた金の瞳が、ゆっくりとわたしの方に戻ってくる。
「僕に負けたと本気で悔しがるあの顔が、さ。 いつもいつも……本当に可愛かった」
「か!?」
可愛かった?
エヴァンが?
今そういったの?
言葉を理解できずにいるわたしを、エヴァンが見つめる。
「アティ……君はずっと僕に『勝てない』って言って、かわいい顔で悔しがっていたけど。 ……僕はね、とっくに君に大敗しているんだよ」
「は? 何を言って?」
完全にキャパオーバーで。
何を言われているのか理解できないわたしを、エヴァンが喉を鳴らして笑う。
「……ほら、『惚れたもの負け』ってよく言うでしょ?」
ドクと心臓が今までとは違う意味で高鳴った気がした。
惚れたもの?
ねえ、それってどういう意味?
そう問い掛けようとした、その時────。
東の空、日が傾き、紫色の変わっていたその空が、急激に明るくなった。
空を覆い尽くす、白銀色の光。
見覚えがある。
あれは『聖なる炎』の光。
そしてあの方向には、イルイザ大森林のある。
ここから森まではそれなりに距離がある。
それでもわかるほどの巨大な光。
あんな規模の魔法を使えば、術士はただではすまない。
そしてあの魔法を使えるのは、この国にわたしとエヴァンしかいない。
つまり、今エヴァンが……。
「……………………っ!」
声にすらならなかった悲鳴が、喉奥で消えていく。
食いしばった歯がギリッと音を立て、目を見開いた瞬間、また涙が頬を伝って落ちていった。
「ねえ、アティ?」
東の空を覆いつくす、神聖で美しい光を背にして。
夕日で赤金色に染まった美しい目を細めて、エヴァンが穏やかに笑う。
「君のことが大好きだったよ。 初めてあったその時から。 ずっとずっと君に夢中だった」
「エ、ヴァン……」
「アティ……」
今まで誰かに、こんなに優しく名前を呼ばれたことなんてない。
こんなに熱のこもったせつない目で見つめられたことも。
胸の奥がジンと熱くなると同時に、いい知れない恐怖がはい上がってくる。
エヴァンがもう一度、噛み締めるように「アティ」と、わたしの名を呼んで。
そして。
泣きそうな顔で笑った。
「ねえ、アティ? 僕よりもいい男がいるとはそうそう思えないけど。 ちゃんとマシな男を捕まえて幸せになってよね。 ほら君って、ものを選ぶセンスがイマイチだから、僕は心配だよ」
エヴァンがくすくすと喉を鳴らして笑う。
泣きそうな、それでいてそれを必死で隠すように。
口元にいつもの憎たらしいあの笑みを浮かべて、笑う。
ギュウッと心臓が苦しいほどに締め付けられる。
ものを選ぶセンスがない、ですって?
……そうよ、わたしは男を見る目が最悪よ。
だってわたしは………っ!
「アティ……ずっと騙していてごめん。 君には怒られるだろうけど……」
そこで一度言葉を切ったエヴァンは、すぐに「でも……」と続けた。
「でも、君と過ごしたこの一ヶ月は、人生で一番幸せで、一番楽しかったよ」
「…………っ! や、めて」
どうしてそんな最後みたいな言い方をするの。
もう会えないみたいなそんな言い方を。
「……ゆる、さない…わ」
わたしをずっと騙していたこと、絶対に許さない。
お望み通り、その両頬をぶん殴ってやるんだから。
だから────っ。
「うん、ごめんね。 アティ」
エヴァンが笑う。
口元に綺麗な笑みを浮かべて。
そして。
「バイバイ」
聞きたくもない別れの挨拶が聞こえた。
その瞬間。
東の空がいっそう強く光った。
一瞬昼間かと思うほど、世界全てが白銀色に染まって。
「エヴァン!!」
待って!
行かないでよ!
だって、本当は。
────本当は、わたしだってずっとずっとあなたのことが好きだった!!
だから行かないで!!
余りの眩しさに目を閉じた。
目を閉じる瞬間、エヴァンが……黒豹の姿ではなく、いつものあのエヴァンが。
ものすごく綺麗な顔をして笑った気がした。
そうして。
どれくらい時間がたっただろう。
多分時間にして見れば数秒しかたっていないんだろうけど、時間の感覚がはっきりしない。
まばゆい光はゆっくりと消えていって。
「エヴァン!!」
静けさを取り戻したそこには。
黒豹がぐったりと倒れ込んでいた。




