10
王宮の東の端。
日当たりのいい場所にある部屋、その扉の前で、わたしは三度目になる深呼吸を終えた。
この扉の向こうにエヴァンがいる。
10分も前にここに案内されたにも関わらず、わたしは未だに部屋の中に入ることも、扉をノックすることさえも出来ずにいる。
扉の前でずっと立っているわたしに、行き交う人たちは皆挨拶をしてくれる。
とても生暖かい目で。
さっさと部屋に入ってしまえば、少なくてもそんな『頑張ってくださいね』『応援してます』みたいな視線からは解放されるけれど。
どうにも勇気が出ない。
だって、部屋に入ったら当然エヴァンと顔を合わせるわけで。
そんなの、どうしたって緊張する。
エヴァンの名前が出るだけ心臓がバクバクと早打ちして、爆発してしまいそうなのに、顔を合わせたら一体どうなってしまうの。
あれからもう二週間も経ってるのに。
そう、もう二週間も前になる。
イルイザ大森林で発生した王国至上最悪といわれる魔物大発生。
それを命をかけて終息させたエヴァンが、その直後にわたしに言った言葉。
「ねえ、アティ? 僕と結婚してくれないかな?」
貴族、特に公爵家のような上位貴族の婚約は、当人同士の気持ちだけでは結ばれない。
家と家との関係性もあるし、国王陛下のお許しが必要だからだ。
なにより、あの時のエヴァンはどう見ても意識が朦朧としていたし、発言だって表情だって普通じゃなかった。
だからその言葉を真に受けちゃいけない。
わかっていたけれど、でも『はい』とも『いいえ』とも言えなくて。
迷ってなにも言えないでいるうちに、エヴァンは気を失った。
致死量近い出血、極度の魔力切れ、疲労、睡眠不足に栄養不足。
あれだけの極限状態だったんだから、そりゃあ意識を保ちつづける事なんて到底出来なかったんだと思う。
気を失ったエヴァンを見て、恥ずかしいことにまたわたしは大騒ぎしてしまったわけだけれど。
さすがに騎士団の人たちは場数が違う。
そんなわたしをフォローしつつ、とても冷静で適切に処置しエヴァンを無事に王都へと運んでくれた。
わたしもちょうどイルイザ大森林に到着したジルベルトの馬車に乗せてもらって、王都のタウンハウスに戻った(ジルにはかなり驚かれたけれど)。
そうして王宮の医務室で治療を受けていたエヴァンが、無事に目を覚ましたという知らせを受けたのが、一週間前。
長い間心臓が止まっていたことにより、なんらかの後遺症が出るかもしれないと心配されていたけれど。
今のところ、目立った後遺症は何もないらしい。
本当によかった。
そして昨日の昼過ぎ、ようやく面会の許可がおり、今日わたしはこうして王宮に招かれているわけだけれど。
エヴァンと顔を合わせるのは『結婚してくれる?』以来初めて。
最初になんて声をかけたらいいのかしら。
そもそもエヴァンはそのことを覚えているのかしら。
お医者様からは『前後の記憶があやふやだ』っていう話も聞いているけれど。
もしエヴァンが覚えていないなら、わたしからはその話題を避けるべきよね。
あの時のエヴァンはどう見ても普通じゃなかったし。
けれど、なかったことになるのはやっぱりさみし─────。
やっぱり寂しい。
わたしの心がうそ偽りなくそう感じた、ちょうどその時。
キィと軽い音を立てて、目の前のドアが内側に開かれた。
「グルル」
「え、クロ?」
扉のすぐ側にいたのは、見慣れたエヴァンの召喚獣で。
どうやら前足を使って器用に扉を開けたのは、このクロらしい。
「クロ! あなた無事だったのね?」
あの時消えてしまったから、大丈夫だったのかとずっと心配していたのだけど。
「ガル」と、わたしに返事をするように一鳴きしたクロがわたしの右手に額をこすりつけてくる。
すごくかわいい。
「……喚び戻したんだよ。 こいつがいると、色々と助かるからね。 …………ところで君は、いつまで扉の前でぼーっとしてるつもりだったの?」
正面におかれたベッド。
そのベッドの上で枕に身を預けるようにして上体を起こしていたエヴァンが、不機嫌そうに言う。
こっちを見ようともせず、そっぽ向いたまま。
わたしがずっと扉の前にいたこと、どうやらエヴァンにはばれている。
一応気配を消していたつもりだったのに、この天才にはそんなこと通用しないらしい。
実力を見せつけられたようで悔しい。
そしてなにより感じが悪い。
なぜわざわざお見舞いにきたのに、こんな言われ方をしないといけないのかしら。
「別に…っ。 いつまでってわけじゃないけど」
無意識に不機嫌な声がでた。
やってしまった。
今日はエヴァンにお礼を言おうと思ってたのに。
イルイザ大森林を実際に見て、そして今回の魔物大発生に関する報告書を特別に見せてもらって。
思い知った。
自分がいかにエヴァンに助けられたか。
もしエヴァンがわたしの変わりに出陣してくれなければ、わたしは絶対に生き残れなかった。
エヴァンほど魔力が多くないわたしでは、溢れかえった魔物を一掃するだけで力尽きて。
魔物が残した大量の瘴気は、浄化されることなく我がルナマリン公爵領を長年に渡って侵食していたはず。
エヴァンはわたしも、そしてわたしが大事にしている領地も救ってくれた。
ただでさえエヴァンにはジルを救ってもらってるのに。
だからこんなちょっとの事で、苛々しちゃいけない。
気持ちを落ち着かせるために、一度大きく深呼吸をする。
そしてあらためてお礼を言おうと口を開く、その一瞬早く。
「ねえ、アティ? 悪いんだけど、この前言った『あの言葉』、なかったことにしてくれないかな?」
「え?」
ドクッと。
心臓が嫌な音をたてた気がした。
『あの言葉』?
『なかったことにしてくれ』?
思い当たることが一つしかなかった。
つまり。
────『僕と結婚してくれない』?
それをなかったことにしてほしいって?
エヴァンは今そういったの?
思った瞬間、ふふ、っと喉の奥で笑いが漏れた。
ええ、いいわよ。
あなたが正気じゃないことなんて最初からちゃんとわかってたし?
わたしだって、どうやって断ろうかと思ってたから?
考える手間が省けてよかったわ。
はいはい、勿論、なかったことにしてあげるわよ。
そう言って笑い飛ばしてやろうと思ったのに。
「……っ。 なんっで、そんなこと、いうの、よ」
気がつけば、大粒の涙がボロボロと頬を伝い落ちていた。
エヴァンの前で泣くなんて心底悔しい。
それもエヴァンの言葉一つで傷ついて。
けれど、どうしても堪えきれなかった。
エヴァンはあの時正気じゃなかった。普通じゃなかった。
ちゃんとわかっていたのに、それでもわたしは嬉しかった。
本当は、あの場でなにも考えずただ『はい』と答えたかった。
エヴァンが目を覚ますまでにも。
そしてここに来るまでにも。
この扉の前でだって。
何度も何度も『結婚してくれない?』を思い出して。
馬鹿みたいにずっとそわそわして、心の中で一人、大騒ぎしていたのに。
なのに覚えていないならまだしも、覚えていてなお『なかったことしてくれ』なんてあんまりだわ。
「え、なんで君が泣くの?」
焦ったようなエヴァンの声。
不機嫌そうにそっぽ向いていた目が、わたしを見て焦ったように左右に揺れる。
「僕は君のためを思って────っ!」
わたしを見つめるエヴァンの表情が曇る。
わたしのため?
意味がわからない。
それともエヴァンは、一生をわたしと過ごすつもりはないってこと?
そう思った、その時。
「ガル」とすぐ近くで泣き声が聞こえた。
涙に濡れるわたしの頬を、下から上へザラリとした感触の、生暖かいものが撫でていく。
クロ、だった。
わたしを慰めるように、伝い落ちる涙を一生懸命に舐め取り。
そうして尻尾を足に絡め、何度も頭を擦り寄せてくる。
かわいい。
エヴァンが乗り移っていたときとは違う、紫色の瞳がわたしを見る。
大丈夫?というように首を右に傾げる仕種が、物凄くかわいい。
ほぼ無意識にその頭を撫でると、嬉しそうにクロはわたしの周りを一周して。
もっと撫でてと言わんばかりにまた頭を寄せてきた。
あまりの可愛さに、涙もぴたりと止まった。
もうエヴァンの事なんて知らない。
何か言おうと口を開きかけたエヴァンを無視して、本能のままかわいいクロの体を撫でる。
と。
「────大福」
思わずひっと声がでそうな程、低い声が聞こえた。
誰の声、なんて考えるまでもない。
鼓膜を震わす、この無駄にいい声はエヴァンの声だ。
それにしても、大福……って?
確か大陸の西の方の国にあるお菓子のこと、よね?
でもどうして今?
聞き慣れない単語に眉を寄せたのとほぼ同時に、わたしに身を寄せていたクロの体が明らかにビクリと震え上がった。
「大福、一体誰の許可を得て、僕のアティに馴れ馴れしくじゃれついているのかな?」
ことさらゆっくりと、言葉は続く。
思わず視線を向ければ、ベッドの上、エヴァンがとてもにこやかに笑っている。
ゴゴゴゴという形容詞がピッタリはまるほどの、黒い何かを吹出しながら。
っていうか、今『僕のアティ』って。
エヴァンの口から、さらりと当たり前のよう出てきた言葉に、どうしたって胸が高鳴った。
あなたのものになったつもりはないわよ。
以前のわたしだったらそう言って怒り狂うところだけれど。
今はその言葉が、震えるほど嬉しかった。
「ねえ、教えてくれる? 主人を差し置いて、アティに尻尾を絡ませる、なんていう破廉恥な行為をしたお馬鹿さんは、いったいどこのどいつだろうか?」
床に身を伏せ、絶対服従の姿勢を取りながら、クロはプルプル体を奮わせている。
どうやら『大福』というのは彼の名前らしい。
黒豹だからクロ、と名付けたわたしたちを「センスがない」と笑っていたけれど。
こんなスマートでかっこいい黒豹に、大福を名付けるエヴァンのセンスも大概ではないかしら。
「アティと大事な話をしていた主人を押しのけて、横入りした挙げ句、この僕でさえしてもらった事がない『頭を撫でる』という行為をアティにしてもらっている裏切り者は……一体どこのどいつだろう?」
「ねえ、教えてよ」と、物凄く迫力のある顔でエヴァンが笑う。
「キュン」とか細い鳴き声が聞こえて。
床に伏せていたクロ(大福?)が、エヴァンの元へと足早に戻っていく。
そうして機嫌を取るようにエヴァンに擦り寄るクロに対して、エヴァンは不機嫌そうにフンと鼻を鳴らしている。
その姿はなんだか。
「ヤキモチ?」
を焼いているようにしか見えない。
あのエヴァンが?
自分の召喚獣相手にヤキモチ?
自分でもありえないとわかっていながらも、思わず呟けば。
「そ、そんなわけないっ!」
と、エヴァンの顔が真っ赤に染まる。
どう見ても図星をつかれた人の反応にしか見えない。
あのエヴァンが?
ヤキモチ?
いつもわたしの前では憎たらしい笑顔ばかりで、顔色一つ変えなかったのに。
なにかしら、このこそばゆいような気持ちは。
なんだか胸のあたりがそわそわするし。
さっきから微妙な空気が部屋の中を流れている気もする。
「そ、それにしても召喚獣って主人にしか懐かないって聞いたけど、違うのね?」
なんとか空気を変えないと、と思って話題を無理矢理変えてみたけど。
「そりゃ、主人の好きなものは基本的に同じように好きだからね」
「…………え?」
あえなく失敗した。
主人の好きなものは同じように好き?
それってつまり。
自分の失言に気がついたのか。
ぼっと目に見えるくらい一瞬で、エヴァンの顔がもっと赤く染まる。
耳や首元、目に見えるところ全てが真っ赤だった。
「ち、違う! 別に、僕がアティを好きって言ってるわけじゃなくて……」
赤い顔を隠すようにエヴァンが両手で顔を覆った。
じゃあなんなのよ?
今自分でそういったじゃない。
なにより『わたしのことが好きだった』って言ってたじゃない。
男らしくちゃんと面と向かって言ってよ。
かわいくなれないわたしなら、そう言ってまくし立てるところだけど。
本のすこしだけ、わたしもかわいくなってみようと思う。
「違う、の?」
エヴァンはわたしのことが好きじゃないの?
そういう思いをのせて、上目遣いにエヴァンを見つめれば。
「………っ! ち……ちが…わ、ない」
真っ赤な顔をしつつも、エヴァンは小さな声でそう答えてくれる。
指の隙間からちらちらとこちらを伺う表情が、なんだか物凄く愛おしい。
でもだからこそ。
「じゃあどうしてさっき、求婚をなかったことにしてくれ、なんて言ったの?」
先ほどのエヴァンの言葉が心に突き刺さる。
「それ、は………」
言いよどむエヴァンに、わたしは大きく一つ息を吐き出して。
静かにベッドまで行き、ベッドの隣に置いてあった椅子に腰かけた。
聞かせて、と行動でしめれば。
エヴァンの赤かった頬がみるみる白くなっていく。
「求婚を取下げた理由は……僕がどうしようもなく卑怯、だったからだよ」
「卑怯?」
怪訝そうに問い返したわたしに向かって、エヴァンは顔を歪め、矢継ぎ早に話しはじめた。
「だってあの状況だよ」と。
いわく。
だってあの状況だよ?
あんな状況で求婚されて、君は断ることが出来た?
出来ないよね?
しかも最悪なことに、その求婚相手は死にかけのボロボロで。
顔も服も、血と泥できったないし。
で、求婚と同時に渡されたのは萎れかけた花一本だけ?
指輪もなければ綺麗な海も夕日もない。
あるのはさっきまでゾンビがいた不気味な森と、そいつらが残したむせ返る程の腐臭だけ。
そんな中で求婚?
有り得ないよね?
僕は君を一ヶ月も騙しつづけた男だし。
許さないって言われたし。
卒業前に言われた言葉だってまだ撤回してもらってないし。
だから君だって。
「だから君だって、『はい』も『いいえ』も言えなかったんだろう?」
小さく、拗ねたようにそう呟いて、エヴァンはまたそっぽを向いた。
えっと。
早口すぎてよくわからなかったけど。
要するにエヴァンは。
「もしもう一度、君に生きてあえたなら、今度こそ大事にするって誓ったんだ。
君は本当に嫌で不本意だろうけど。 状況的に今回、君は僕に命を救われたことになってしまったから。 その恩を反すために君が望まない結婚をするはめにならないように、一応は求婚を取下げて。
………ああ、でも僕はもう君を手放すつもりはないから、遅かれ早かれお嫁さんには来てもらうつもりなんだけどね?
とりあえずよき友人から初めて、もう少し距離を近づけてから求婚しようと思って。
ねえ、求婚には、指輪と、海、それに綺麗な夕日はかかせないよね?
それとも星空の方がロマンティックかな。
僕的には………」
「うるさい、話が長いわ!!」
早口で話しつづけるエヴァンを一言で黙らせる。
わたしが断れない状況での求婚だったから?
ええ、そこは確かに納得できるわ。
でもいつまでもぐだぐだと、あなたらしくない。
結局エヴァンは。
「結局エヴァンはなにが言いたいのよ!?」
ジロリと睨みつければ。
エヴァンは驚いたようにパチパチと二度瞬きをした。
数秒何かを考え込んでいたエヴァンのその表情が、ゆっくりと真面目で誠実なものへと変わっていく。
「ごめん、さっきの言葉、やっぱり撤回させてくれる?」
美しい黄金色の瞳が、まっすぐにわたしを見つめる。
そして。
「アティ。 君の何事にもひたむきで一生懸命なところ。 芯が強いところ。 負けず嫌いなところ。 それから、ちょっと意地っ張りなところも。 全部がたまらなく愛おしい。 一生大事にする。 だから、どうか僕と結婚してほしい」
「……ええ、いいわ。 ふふ、さっさとそういいなさいよね、この馬鹿」
「ぐっ。 アティ、アバラ三本折れて……いや、なんでもない」
「ところで、『大福』っていうのは、召喚獣の名前?」
「そうだよ。 黒豹だからクロ、なんていう安直な名前じゃなくて、センスがあるでしょう?」
「…………あなた、よくそのセンスでわたしのこと、毎回センスがないって罵ってくれたわね」
一応ここで本編終わりですが、もう一話、エヴァンさんの心の安寧(?)のために番外編をいれます。
よろしくお願いします。
ちなみにアティが弟のジルと立ち上げようと思っている事業は、新たな看護、介護用品を取り扱ったお店です。
魔力を込めた魔力石は偶然見つかったもので、エヴァンが持っていたあれ一つしかありませんでした。
たくさんあればまた違った戦い方もあったかもですが。
読んでくださりありがとうございました。




