あなたが薔薇をくれたから
遠くからあの人の姿を目にするだけで、私は十分に満たされていた。
幼いころからずっと一緒で、いつも優しく声をかけてくれるから、それだけでも幸せだったのに。
あの日のことを、一生忘れることはないだろう。
あの日、貴族だけが招かれる庭園パーティの会場に、成人を迎えたばかりの私もいた。まわりの華やかな人たちに圧倒されて……なるべく人目に触れぬよう、隅でひっそりと大人しくしていた。
そんな私に、あの人はそっと声をかけてくれた。
そして人目を忍ぶようにして、庭園に咲き誇る薔薇の中から一輪の花を手渡してくれた。
これはただの薔薇じゃない。
だって、この催しで薔薇を贈るということは――とても特別な意味を持っていたのだから。
「ありがとう」
無言でおずおずと受け取った私に、彼はウインクひとつ残して去っていった。
ただそれだけの出来事だったけれど、あの日、私たちは確かに通じ合っていた。
……遊びだったなんて、思いたくもなかった。
けれど、彼もまた華やかな人だったから。周囲に思わせぶりな態度を取ることも少なくなかった。
彼の周りにはいつも女の影があった。
それがどうしても……許せなかった。
牢の天井を見上げていると、天窓から光が差し込んできた。
いつの間に朝になっていたのだろう。鳥のさえずりが、耳の端をかすめていく。
灰色の石壁は無機質で、どこからか吹き込む隙間風も冷たかったけれど――心は妙に穏やかだった。
扉の向こうで鎧の擦れる音がした。くぐもった声で何かが交わされる。
続いて、がちゃりと鍵の回る音。軋むような音を立てて扉が開いた。
「ご機嫌はいかがかな、お嬢さん」
現れたのは王城から派遣された取り調べ役の男だった。中年の、無精髭を生やした男。
最初に会ったときは随分と怖かったけれど、今ではもうすっかり慣れてしまった。
「悪くないわ。よく眠れたもの」
「そうか。じゃあ、早速始めようか。……お嬢さん。自分が何をしたか、分かってるな?」
「もちろん」
何度目になるか分からない問いかけに、私は静かに頷いた。
自分がしたことはすべて覚えているし、後悔もしていない。
あれは必要なことだった。あの女たちを遠ざけるには――そうするしかなかった。
「まず一人目。マーガレット・エルディア。……どうして彼女を殺した?」
「聖女なんて騙るからいけないのよ。あの人もすっかり信じ込んで、自分のことのように喜んで……。目を覚ましてほしかったの」
言葉に熱がこもる。ああ、思い出すだけでも腹が立つ。
あの人に近づくなと、私に釘を刺してきた女。
あの人から贈られたイヤリングをこれ見よがしに見せびらかして……。私たちの仲に嫉妬していたに違いない。そんな俗物が聖女だなんて、まったく笑わせてくれるわね。
「神の代弁者を名乗るのなら、その身は守られたはずよ? 私はただ、証明してあげただけ」
仮に真実だったとしても、所詮は名誉職だもの。結果は――語るまでもないわよね。
お気に入りの園芸鋏だったのに。血で錆びついて、すっかり使えなくなってしまったわ。
男は黙ったまま。石壁に、ペンを走らせる音だけがかすかに響いていた。
「……二人目。アマリリス・エルディア。彼女については?」
「あの女は、ずっとあの人にまとわりついていたの。あの人の地位も財産も、まるで自分のものみたいな顔をして。正式な婚約者だっていたくせに彼にベッタリと……。あの人もすっかり困っていたわ」
媚びるような仕草、甘えるような声。他の男たちも手玉に取っていたくせに、彼にネックレスをねだる姿は醜悪そのものだった。
「……二人の関係性を思えば、そこまでおかしくもないのでは?」
「だから何? 私たちの仲を引き裂くのなら、相手が誰だろうと関係ないわ」
「なるほど。……三人目。シレネ・ヴァスティン。彼女については?」
「言うまでもないでしょう? 政略結婚だなんて、愛のない形に縛られて苦しむ彼が可哀想だったの。それに……あの女も私を見下していたわ」
ふ、と自然に笑みがこぼれる。悲嘆にくれるあの人に付け込むように、あの女は当然と言わんばかりの顔で彼の傍から離れようとしなかった。
あの人もすっかり絆されてしまって……。婚約者だか何だか知らないけれど、あんな卑怯な女、彼に相応しいはずがない。
「私、何度もお願いしたのよ。彼が本当に愛しているのは私なんだから身を引いてって。その指輪を返してちょうだいって。でも……私のことを気持ち悪がるばかりで、取り合おうともしなかった。彼は日に日にやつれていったわ。だから……だから、見ていられなかったの」
男は深くため息をつき、手元の書き付けを静かに閉じた。しばらく無言で立ち尽くしたあと、私の顔をじっと見つめる。
「なあ、お嬢さん。……本当に、彼はあんたを愛していたのかい?」
思わずまばたきをする。何を聞かれたのか、一瞬わからなかった。
「そんなの……決まってるじゃない。確かに、表立っては一緒にいられなかったけど、私たちは小さいころからずっと一緒で……屋敷の裏庭で遊んで、剣の練習も手伝って、馬にも乗せてもらって……」
「それはあんたが庭師の娘として屋敷に出入りしてたってだけの話じゃないのか? 全部、エルディア姉妹がしていたことを、見ていただけだろう?」
「ちがう! 彼は、いつも私に優しくしてくれたもの!」
「……その優しさがあんただけに向けられたものだったのかどうかは……分からないだろう」
思わず唇を噛みしめる。
分かっていない。この人も、みんなと同じように私のことを笑うんだ。
「好きに言ってちょうだい。身分違いの恋だもの。理解してもらおうなんて最初から思ってないわ」
お互いに隠すしかなかったから――視線を交わすだけで、そっと想いを育んでいたというのに。
私には、それすらも許されないというの?
「……四人目。イキシア・エルディア。……あんたを愛した男は、死ぬ前に何か言ってたか?」
私は、小さく頷いた。
「君は誰だ――ですって」
酷い人よね。
まるで他人を見るような、冷たい瞳。
その瞳が私の身に着けた装飾品に注がれたときの――あの、恐怖に染まり切った顔。
男は何かを飲み込むようにして視線を逸らし、やがて黙って背を向けた。
扉が閉まり、再び、冷たい鉄の音が響く。
私は目を閉じた。ほんの少し、涙が滲んだ気がした。
でもそれは悲しみじゃない。ようやく、あの人を私だけのものにできたという……安堵だった。
もう誰にも邪魔されない。もう誰にも、彼を奪われない。
私に優しく話しかけてくれた人。
……誰よりも、優しくしてくれた人。
そう。あの日、あの人は――。
少し萎びた薔薇を一輪、私に差し出してくれたのよ――。
坊ちゃまは花にうるさい方だから、ほんの少しでも見栄えが悪ければ、すぐに処分してしまう。
だから娘は――その処分を、私の代わりに頼まれただけだったのに。
あの日、成人を迎え、ひとり立ちした娘に剪定鋏を贈らなければ。
あの日、裏方としてパーティの会場に連れて行かなければ。
薔薇を貰ったと無邪気に喜ぶ娘の姿を見て、水を差すのも悪いかと「良かったな」なんて言わなければ。
そんな言葉をかけなければ。
あんな惨劇は、起こらなかったのだろうか――。
長年花を育ててきた庭師の男は、静かに姿を消した。
屋敷には、一通の遺書だけが残されていた。