表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
98/309

第88話




ロストンの街並みは、午後に近づくにつれ活気を増していた。


市場の喧騒は少しずつ大きくなり、路地を歩く人々の足取りは、街を揺らすほどに慌ただしい。


パン屋の軒先で、焼き立ての香りがまだ漂うテーブルの上に、ルシアンは指を組んだまま俯いていた。


対面のオリカはカップを傾けながら、何気ない仕草でルシアンを見ていた。


「……迷惑じゃないのか?」


不意にルシアンが言った。


オリカはカップを置き、目を瞬かせる。


「……何が?」


「俺のことだよ」


ルシアンはテーブルに視線を落としながら、言葉を続けた。


「金もないのに勝手に押しかけて、気がつけば当たり前のように生活を送っている。

自分が誰なのかもろくに伝えないまま、こうして平和な一日を過ごしてる。……不自然じゃないか?」


沈黙が落ちる。


遠くから、路地裏で遊ぶ子どもたちの笑い声が聞こえていた。


「……お前は、俺を疑わないのか?」


その問いは、まるで自分自身に向けられたようでもあった。


「なぜ俺を助ける?」


それは、ずっと抱えていた疑問だった。


自分のような人間に、なぜこんなにも手を差し伸べるのか。


見ず知らずの誰かに何かを与えようとすることの理由が、ルシアンには理解できなかった。


「目の前の人間は、今まで出会った人たちとは違う」


ヴァルキアでは、何かを得るには代償が必要だった。


「無償の善意」など、ありえないものだった。


なのに、目の前の女は、それを当然のようにやってのける。


——まるで、あたりまえのことのように。


オリカはルシアンの言葉を聞いたあと、パンの端をちぎりながら言った。


「……そういうふうに考えるのは、普通のことだよね」


「……」


「でも、私にとっては、別に普通のことなの」


「普通……?」


「目の前に病人がいたら、手を差し伸べるでしょ?」


ルシアンは何も答えられなかった。


それは、あまりに単純で、しかしルシアンにとっては受け入れがたい言葉だった。


行商人バルドのことを思い出す。


何も持たない俺に、食べ物を与え、着るものをくれた。


「生きろ」と言ってくれた。


俺は、ずっと考えていた。


なぜ、そんなことをするのか。


何の得もないのに。

何の理由もないのに。


「ルシアン」


オリカが彼の名前を呼ぶ。


「私はさ、医者だから」


そう言って、彼女は微笑んだ。


「理由なんて、いらないのよ」


ルシアンは、その言葉を噛み締めるように沈黙した。



午後の日差しが、街角を通り過ぎていく。


ルシアンはぼんやりと考えていた。


「俺は、死を覚悟していた」


診療所に駆け込んだのは、確かに“生きようとする自分”がいたからだ。


でも、それと同時に、心の奥では「もうダメかもしれない」と思っていた。


何度も目の前で、人が死んでいくのを見た。


収容所では、飢えや病気で倒れた仲間を何人も埋めた。


「今度は自分か」


そう思う気持ちは、常にどこかにあった。


半分、諦めていた。


いや、それ以上に——


「もう、生きること自体に意味がないんじゃないか」


そんなことを考えることもあった。


……でも、気づけば生きていた。


目を覚ましたとき、暖かな日差しが、目の前に落ちていた。


焼きたてのパンの匂いがして、誰かの笑い声が聞こえていた。


「それが“現実”だと思えないのは、なんでだろう」


ルシアンは、静かにオリカを見た。


この女は、当たり前のように人を助ける。


当たり前のように笑い、当たり前のように今日を生きている。


——それが、どうしても理解できなかった。


「……お前はさ」


不意に、言葉が零れた。


オリカが、カップを傾けながらこちらを見た。


「お前は、なんでそんなに“当たり前”のように生きられるんだ?」


オリカは目を瞬かせる。


「どういう意味?」


「……俺には、お前が“普通の人間”に見えない」


「ちょっと、ひどくない?」


オリカはクスッと笑った。


「いや、そういう意味じゃない」


ルシアンは少し口ごもりながら、言葉を探す。


「……お前は、生きることを、疑ったことはないのか?」


「生きることを?」


「……そうだ」


ルシアンの瞳には、ほんの少しの迷いがあった。

何かを確かめるように、オリカを見つめていた。


オリカは少し考えたあと、静かに答えた。


「あるよ」


ルシアンの表情が変わった。


「……え?」


「私だって、人間だもん」


オリカはそう言って、窓の外に視線を移す。


「医者ってね、いつも“助けられる”わけじゃないのよ」


「……」


「時には、どうやっても助けられない命もある。何もできないことがある」


オリカの声が、ふと遠くを見つめるような響きになった。


「私、前の世界でね、“救えなかった命”があったの」


「……」


「そのとき、本当に思ったよ。“こんな自分に、何の意味があるんだろう”って」


オリカの横顔は、いつもの飄々とした表情とは違っていた。


「……だけど、それでもね」


「それでも?」


「救える命があるなら、救いたいと思った」


「綺麗事だけどね…笑」


ルシアンは言葉を失った。


「生きることに意味を見出せないときがあっても、明日は来る。私が何を思おうと、目の前には“生きようとする人”がいる。……それなら、私は手を伸ばしたい」


「……」


「それって、別に悪いことじゃなくない?」


オリカの言葉は、どこまでも淡々としていた。


それは、ルシアンが今まで出会ったどんな人間とも違うものだった。

助けることに見返りを求めず、ただ、“そこにいるから”手を差し伸べる。


そんな人間が、本当にいるのか——。


ルシアンは、未だにそれを信じられなかった。


だけど。


だけど、少しだけ。


この世界には、自分の知らない「何か」があるのかもしれない——


そう思った。







港から吹く海の風と、穏やかな木漏れ日。


ルシアンは、湯気の立つカップを見つめながら、ゆっくりと息を吐く。


その沈黙を破ったのは、オリカだった。


「帰る場所はあるの?」


何気なく問いかけるような声だった。


だけど、その言葉は、ルシアンの心を鋭く貫いた。


「……」


診療所に来る人たちは、みんな帰る場所を持っている。


治療を受けた後、家族のもとへ戻る人。

住む街へ帰る人。

それぞれの“日常”へと戻っていく。


——でも、あなたは?


オリカの目が、まっすぐルシアンを見ていた。


帰る場所。


そんなもの、あるはずがなかった。


アウル村は、もうない。


逃げてきたヴァルキアへ戻ることもできない。


どうやって生きていこうかも、見失ったままだった。


だから、ルシアンは何も答えられなかった。


ただ、カップの中の紅茶を見つめたまま、唇を噛んだ。


(俺には、どこにも帰る場所がない)


そう言葉にしてしまえば、本当に全てが終わる気がした。


だから、何も言わなかった。


そんなルシアンの沈黙をよそに、オリカは軽くカップを置くと、あっさりと呟いた。


「だから、さ。そう思い詰めた顔しないで、しばらく診療所の手伝いをしてくれない?」


「……は?」


ルシアンは思わず顔を上げた。


「いや、だから。診療所の手伝いしてって」


オリカは肩をすくめながら言う。


「君さ、一応患者だけど、もうだいぶ動けるじゃん? それに、黒死病の感染防止処置もちゃんとしてるし」


「……いや、でも」


「何、嫌なの?」


「そうじゃなくて……」


ルシアンは言葉に詰まる。


何を言えばいい?


「俺は……」


「どうせ今のところ、行くあてもないんでしょ?」


オリカは、どこか確信したような声だった。


「だったら、別にいいじゃん。寝る場所もご飯もあるし、働けば私の診療所も助かるし」


「……」


そんな簡単に決めていいものなのか。


見ず知らずの人間を診療所で雇うなんて、普通なら考えられないはずだ。


だけど、オリカはそんな常識をものともせずに言ってのける。


「それに、君って手先器用そうだしね」


「……何でそう思うんだよ」


「さっき、テーブルの上のパンちぎってたの、妙に綺麗だったから」


「……そんな理由かよ」


思わずルシアンは呆れたように息をついた。


すると、隣でエリーゼがくすっと笑った。


「きっと、ルシアンさんは、誰かの手助けをするのが向いている人ですよ」


「……俺が?」


エリーゼは優しく微笑む。


「ええ。何となく、そんな気がします」


その屈託のない表情に、ルシアンは言葉を失った。


見返りを求めない、その言葉。

温かい紅茶の温もり。


そして、今いるこの場所。


“ここにいてもいい”——


そんなことを思ったのは、いつ以来だろう。


「……はぁ」


ルシアンはため息をつきながら、カップを傾ける。


「……じゃあ、しばらく厄介になる」


そう言ったとき、オリカは満足そうに笑った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ