第85話
◇
翌朝。
ルシアンはいつものように診療所の雑用をしていた。
カルテの整理、薬の補充、患者の誘導——
少し前までただの逃亡者 だった自分が、こんなふうに診療所の一員として働いていることに、未だに不思議な感覚を覚える。
(……俺は、いつまでここにいるんだろうな。)
そんなことを考えていた、その時——
「先生!! 怪我人です!!」
診療所の扉が 勢いよく開かれた。
そこに立っていたのは、血相を変えた一人の若い男。
「すぐに診てください! 町の外れで倒れていて——!」
ルシアンが反射的に外を見ると、
そこには血まみれの青年が担がれていた。
(……っ!?)
ルシアンは言葉を失う。
肩口には鋭い爪で引き裂かれたような深い傷。
服は血で濡れ、息も荒く、今にも意識を失いそうだった。
「何があったの!?」
オリカが駆け寄る。
男は息を切らしながら答えた。
「こいつ……森の中で、魔獣に襲われたらしくて……!」
「魔獣!?」
「おそらく“黒の森”だと思います! そこの近くで倒れていたので……!」
オリカはすぐにルシアンの方を向いた。
「ルシアン、処置室を用意して! すぐに手当てするわ!」
「……わかった!」
ルシアンはすぐに動き出した。
——これは、今までの雑用とは違う。
本格的な “救命処置” に関わることになる。
(俺に……できるのか?)
一瞬、迷いがよぎる。
しかし、目の前の瀕死の青年を見て、それを振り払った。
(……考える暇はねぇ。やるしかない!!)
ルシアンは処置室へと駆け込んだ。
「出血がひどい……! ルシアン、止血用の布を持ってきて!」
「わかった!」
青年は意識が朦朧としていた。
「だ、大丈夫か……?」
ルシアンは彼の手を握る。
「お、おれ……死ぬのか……?」
「そんなこと、言わせるかよ」
ルシアンは歯を食いしばった。
(……なんでだろうな。)
今まで、自分以外の誰かの生死に、こんなに焦ったことなんてなかったのに。
「ルシアン、私が縫合の準備をするから、傷口を抑えて!」
「お、おう……!」
オリカの指示通り、ルシアンは必死に血を押さえ込む。
(……止まれ、頼むから。)
だが、血はなかなか止まらなかった。
「ちっ……血管が傷ついてる……!」
オリカが焦った声を漏らす。
「魔法で治せねぇのか!?」
「できるわ。でも、これ以上の出血を抑えないと、魔法が追いつかない!」
ルシアンは歯を食いしばった。
(……俺に、できることは……。)
——考えろ。
(……!)
「出血がひどい……! ルシアン、ひとまず魔法で時間を稼ぐから、止血用の布を持ってきて!」
「わかった!」
ルシアンはすぐに医療棚へ走り、清潔な布を取り出す。
患者は息も絶え絶えで、肩口から鮮血を流し続けていた。
(くそ……こんなに血が出てて、大丈夫なのか!?)
彼は思わず患者の顔を見る。
唇が青白く、明らかに出血性ショックを起こしかけていた。
「……これ、放っておいたら死ぬぞ!」
「だから、今すぐ止血しないとダメなのよ!」
オリカの声に、ルシアンはぐっと息をのんだ。
「傷口を洗うわよ! ルシアン、しっかり固定して!」
「お、おう!」
ルシアンは患者の体を支え、傷口の周囲をしっかりと押さえた。
傷の押さえ方、血管の流れ。
全部、オリカから教わっていたことだった。
オリカは滅菌された蒸留水を用意し、皮膚の周りから順に洗い流していく。
「最初は傷の周囲から……汚染された血液や泥を広げないように」
(……なるほど、いきなり傷口をゴシゴシ洗っちゃダメなんだな。)
次に、直接傷口に向かって生理食塩水を流す。
「……異物、まだ残ってる?」
「細かい砂利があるな……。」
ルシアンはピンセットを手に取り、慎重に異物を取り除いていった。
(ちょっとの異物でも、感染の原因になる……慎重に……。)
「ルシアン、上手よ」
オリカが優しく声をかける。
しかし、その間にも血は止まらなかった。
「くそ……! どこからこんなに血が出てるんだ?」
「たぶん、動脈が傷ついてるのよ!」
「……動脈?」
「見て、ここ!」
オリカが指差したのは、傷の奥で脈打つ血管。
そこから、リズムよく鮮血が噴き出していた。
(やべぇ……これ、ほっといたらマジで死ぬ。)
「まずは基本的な止血法でいくわよ」
オリカは清潔なガーゼを傷口に当て、ルシアンに指示を出す。
「ルシアン、しっかりと圧迫して!」
「お、おう!」
ルシアンは両手で傷口を押さえ、強めの圧力をかける。
「こうか?」
「うん、そのまま! 直接圧迫止血法って言って、これが基本なのよ」
しばらくの間、ルシアンは傷口を圧迫し続けた。
(頼む……血が止まってくれ……。)
数分後——
「……ダメだ、まだ出血してる!」
「焼きごてを使うわ!」
「電気メスはないけど……止血できるものならある!」
オリカは傍に置いてあった専用の“焼きごて”を取り出した。
熱伝導率の高い金属で錬成した専用の道具で、止血用のメスとして重用していた。
「これなら、血管を焼き潰して止血できるはず!」
「マジかよ……」
「他に方法はないわ!」
ルシアンは唾を飲む。
(やるしかねぇ。)
「いくわよ……!」
オリカは焼きごてを熱し、慎重に細かい血管へと当てた。
「っ——!」
焦げるような音と共に、傷口からじゅっ……と煙が上がる。
(……細かい血管の止血は成功。でも、問題は動脈よ……。)
「ルシアン、鉗子を取って!」
「鉗子?」
「金属の挟むやつ! 早く!」
「こ、これか!?」
ルシアンは医療棚から鉗子を取り、オリカに渡す。
「動脈を挟んで、血流を止めるわよ……」
オリカは慎重に傷口を広げ、露出した動脈を見つけた。
「……見つけた!」
(ここを結ばないと、出血が止まらない……。)
オリカは鉗子で動脈を挟み、一時的に血流を止める。
「ルシアン、糸を!」
「わ、わかった!」
ルシアンは すぐに医療用の縫合糸を渡す。
オリカは素早く糸を動脈の周囲に巻きつけ、結紮を始めた。
「しっかり……締める……!」
手が震えそうになるのを必死にこらえながら、慎重に結ぶ。
「……よし!」
鉗子を外し、血流が止まったことを確認する。
(これで、大量出血は防げた……!)
「次は、縫合ね」
「ルシアン、糸と針を準備して!」
「お、おう!」
ルシアンはすぐに縫合針と糸を手渡した。
「まずは、奥から……筋肉を縫う」
オリカは深い傷口に針を通し、一針ずつ慎重に縫い合わせる。
「深層縫合が終わったら、今度は表面……」
ルシアンはオリカの細かい手作業を、息をのむように見つめていた。
(こんなに慎重に……一針ずつ……。)
最後に、傷口の端をきっちりと縫い合わせ、縫合が完了。
「……終わった」
オリカは大きく息を吐いた。
「すげぇ……」
ルシアンはぽつりと呟いた。
(……こんな技術、俺には無理だ。)
(でも、オリカは当たり前のようにやってのけた……。)
翌朝。
手術を受けた青年は、ゆっくりと目を開けた。
「……ここは?」
「おはよう」
オリカが微笑む。
「お前、昨日死にかけてたんだぞ」
ルシアンは腕を組みながら言う。
青年は驚いたように肩を動かす。
「……あれ、傷が……」
「しっかり縫ったからな」
「あんたが?」
「いや、オリカがな」
ルシアンは苦笑しながら言った。
青年はオリカの方を見て、ぽつりと呟く。
「……ありがとう」
オリカは静かに頷いた。
ルシアンは、それを見てなんとも言えない気分になった。
(……こんな気持ち、初めてだな。)