第84話
「また、そんな顔してる」
不意に声をかけられ、ルシアンは驚いて顔を上げる。
——オリカがそこに立っていた。
「……なんだ、お前か」
「そんなに驚かなくてもいいじゃない」
オリカは隣に腰掛けると、ルシアンの腕に視線を落とした。
「黒死病のこと、まだ気にしてるの?」
「……ああ」
ルシアンは正直に頷く。
「完治したって言われても、俺が“感染源”かもしれないって考えると……他の奴らと一緒にいるのが怖い」
「——なるほどね。」
オリカは頷くと、カルテを取り出した。
「黒死病は、魔法でも完全に“完治”はできないわ」
「……だろうな」
「でも、“感染を防ぐ”ことはできる」
ルシアンは眉をひそめた。
「……どういうことだ?」
「黒死病の感染経路は、空気感染ではなく“体液・血液”による接触感染が主な原因」
オリカは冷静に説明を続ける。
「ヴァルキアでは空気感染するって言われてるけど、それは誤解よ。実際に私が確認した結果、飛沫感染や空気中に長く留まるエアロゾルの形成は確認できなかった」
「……。」
「でも、傷口や粘膜からは感染する。それに、感染者の汗や唾液には微量の病原体が含まれていることが分かった」
ルシアンは息をのむ。
「……じゃあ、俺は?」
「あなたの体液や血液が感染源にならないよう、特殊な処置を施したの」
「処置?」
「そう。現代医学の知識を応用して、“感染経路を断つための魔法”を作ったのよ」
オリカは小さく微笑む。
「私はまず、あなたの血液に含まれる黒死病の病原体を徹底的に調べた。そして、病原体の活性を抑制し、他者へ感染できない状態に変えるための“魔力バリア”を体内に定着させたの」
ルシアンは驚いた顔をした。
「……そんなことができるのか?」
「完璧ではないけどね。でも、この魔法を維持できる限り、あなたは“他者へ感染させるリスク”がほぼゼロになる」
「ほぼ?」
「完全にゼロとは言えないわ。魔法の効果には限界があるし、免疫の変動によってバリアが弱まる可能性もある。でも、少なくとも日常生活で周囲に広げることはないはずよ」
ルシアンは無意識に息を詰めた。
「……それが、本当なら」
「本当よ」
オリカは彼の目をまっすぐ見つめる。
「あなたはもう、病気を広げることを恐れなくてもいい」
ルシアンはじっと彼女の言葉を噛み締めた。
診療所に戻った後も、ルシアンはオリカの言葉が頭を離れなかった。
(……俺は、本当に普通に暮らしていいのか?)
患者としてではなく、“診療所の一員”として——。
「ルシアン先生!」
突然呼ばれ、ルシアンは顔を上げた。
そこには 一人の少女が立っていた。
「ねぇ、お母さんの薬、もうできた?」
「……ああ、ちょっと待ってろ」
ルシアンは 戸棚から薬の瓶を取り出し、少女に手渡す。
「ちゃんとお母さんに飲ませろよ」
「うん!」
少女は嬉しそうに笑い、診療所を飛び出していく。
ルシアンはぼんやりと、自分の手元を見つめた。
(……俺は今、何をしてる?)
(ただの雑用係? それとも——。)
答えはまだ出ない。
けれど、少しずつ、自分の中に変化が生まれ始めていることを、ルシアンは確かに感じていた。
それから数日が経った。
ルシアンは診療所の仕事に、次第に慣れ始めていた。
最初はただの雑用係だったが、オリカの指導のもと、簡単な診療補助も任されるようになった。
「ルシアン先生、包帯の交換お願いできますか?」
「……先生ってのはやめろ」
そう言いながらも、彼は患者の腕にそっと新しい包帯を巻く。
「……痛くないか?」
「あ、はい。ありがとうございます」
患者は少し驚いた顔をしながら、微笑んだ。
ルシアンは何とも言えない気分になった。
(……俺、いつの間にかこんなことしてんのか。)
診療所に来た頃の自分を思い出す。
ヴァルキアから逃げてきて、ただ生きるためにここにいたはずだった。
なのに今、患者の手当てをしている。
(……変な感じだな。)
でも、不思議と 嫌な気持ちはしなかった。
「ルシアン、次は縫合の手伝い」
「……縫合?」
「そう、外傷の処置よ」
オリカは軽く手袋をはめながら言う。
「今日は、深めの裂傷の縫合を見せるから、よく見て覚えてね」
「……俺にできるのか?」
「最初は見てるだけでいいわ」
そう言われ、ルシアンは仕方なく隣に立った。
オリカは慎重に縫合を進めながら、細かく説明をしていく。
「まず、傷口を清潔にして、消毒液を使って感染を防ぐ。縫合には細い糸を使って、できるだけ傷跡が残らないようにするの」
(……すげぇな。)
ルシアンはオリカの手際の良さに目を見張る。
魔法も使えるのに、なぜここまで手作業にこだわるのか。
「……なぁ、なんで魔法だけで治さねぇんだ?」
オリカは手を止めずに答えた。
「魔法は便利だけど、万能じゃないのよ」
「……どういうことだ?」
「魔法で治せば、すぐ傷は塞がる。でも、それだと組織の修復が追いつかなくて、逆に脆くなるの」
「……脆く?」
「例えば、火傷を一瞬で治せる魔法があったとしても、それは表面をくっつけてるだけ。内部の組織は弱いままだから、すぐに再発する危険がある」
ルシアンは思わず息をのむ。
「だから、基本的には自然治癒の力を活かすの。魔法は補助的に使うのが一番効果的なのよ」
(……なるほど。)
ヴァルキアの魔法使いは、とにかく即効性を重視していた。
だが、オリカは違う。
「その後」を考えて治療をしている。
ルシアンは少しだけ、彼女のやり方に興味を持ち始めていた。
その夜。
ルシアンは診療所の裏庭で、夜風に当たっていた。
夜空はどこまでも澄んでいて、星が美しく輝いている。
(……俺は、何をしてるんだろうな。)
ヴァルキアを逃げてきたのに、気づけばここで医療の手伝いをしている。
(……変なもんだ。)
「何してるの?」
振り向くと、オリカが そこに立っていた。
「……ちょっと、涼んでただけだ」
「そう?」
オリカはルシアンの隣に腰を下ろす。
しばらく、二人の間に静かな時間が流れた。
「……ねぇ、ルシアン」
オリカがふと、口を開く。
「あなたって、誰かのために何かしたことある?」
「……は?」
ルシアンは驚いた顔をした。
「なんだよ、それ」
「そのままの意味よ」
オリカは星空を見上げながら、静かに言った。
「あなたは、今まで“自分が生きるため”に生きてきたんでしょ?」
「……。」
「でも、人のために動くってのも、悪くないものよ」
「……。」
ルシアンは黙り込む。
(……俺は、誰かのために何かをしたことがあるか?)
考えてみても、すぐには答えが出なかった。
「……俺には、向いてねぇよ」
「そう?」
オリカはふっと微笑む。
「でも、あなたはもう、誰かのために動いてるわよ?」
ルシアンは言葉を失った。
「あなた、今日も患者の包帯を巻いたでしょ?」
「……それは、ただの雑用だろ」
「それでも、あなたがやらなかったら、誰かが困ったはずよ?」
ルシアンはゆっくりと息を吐く。
(……俺は、誰かのために何かをしたいのか?)
答えはまだ出ない。
けれど——
(……悪くない、かもな。)
そんな考えが、ほんの少しだけ心の中に芽生え始めていた。




