第83話
「エリーゼ、急患!」
診療所の扉が勢いよく開いた。
ルシアンとエリーゼが顔を上げると、オリカが血相を変えて駆け込んできた。
「今度は何?」
「怪我人。馬車に轢かれたって!」
「すぐ処置室へ!」
エリーゼは素早く立ち上がり、準備に取り掛かった。
一方、ルシアンはぽかんと二人を見つめる。
「……おい、俺は?」
「何してんの、ついてきて!」
オリカに腕を引っ張られ、ルシアンは処置室へ連行された。
処置室に運び込まれたのは、 中年の男性だった。
額から血を流し、右足が不自然な角度で曲がっている。
「脛骨の骨折……ね」
オリカは素早く状況を判断すると、エリーゼに指示を飛ばす。
「ギプスの準備! 麻酔も!」
「はい!」
「ルシアン!」
突然、自分の名前を呼ばれ、ルシアンは身を強張らせた。
「……なんだよ」
「手伝って」
「……俺が?」
「そうよ!」
オリカは手袋をはめながら、彼を真っ直ぐ見た。
「あなた、カルテ整理してたでしょ? それなりに覚えたことあるでしょ?」
「……いや、そりゃ、多少は」
「なら、できる。ガーゼと包帯、そっちの棚にあるから取ってきて!」
ルシアンは戸惑いながらも、指示された通りに動いた。
——初めて見る、本物の医療の現場。
ヴァルキアでは考えられない光景だった。
目の前の人間を助けようと、全員が必死になって動いている。
それがとても不思議だった。
「ルシアン、患者の肩を押さえて!」
言われるがまま、ルシアンは 怪我人の肩を押さえた。
男性は苦しそうに息を荒げる。
「くっ……!」
オリカは彼の脚の状態を慎重に確認しながら、治癒魔法を使う。
「魔法だけで骨を完全に直すのは難しい……でも、炎症を抑えて痛みを和らげることはできるわ」
(——痛みを和らげる?)
ルシアンはその言葉に驚く。
ヴァルキアでは、怪我を負った者は 「耐えろ」としか言われない。
痛みを和らげることに価値を見出す文化はなかった。
だが——
(……こいつらは、“楽にさせる”ことまで考えるのか。)
ルシアンは無意識に手に力を込めた。
(……変な国だよ、本当に。)
処置が終わり、患者が休息を取れる状態になると——
オリカは大きく息をついた。
「ふぅ……お疲れ」
エリーゼが水を差し出す。
「ルシアン、ありがとね」
ルシアンは少し戸惑いながら、水を受け取った。
「……俺、役に立ったのか?」
「もちろん」
オリカはにっこりと笑った。
「最初は雑用でも、こうやって実践を積んでいけば、色々できるようになるわよ」
「……そうかよ
ルシアンは水を飲み干しながら、ぼんやりと考えた。
(俺は今、何をしてるんだろうな。)
ヴァルキアから逃げてきて、気づけば診療所で働かされている。
でも——
(嫌じゃない、のか?)
“誰かを助ける”という行為が、奇妙な心地よさを持っていた。
それから数日が経った。
ロストンの診療所での生活は、ルシアンにとって予想以上に忙しく、そして奇妙なものだった。
「おい、包帯はどこにある?」
「そこの棚の二段目!」
「くそっ……なんでこんなに種類があるんだよ」
「消毒用と圧迫固定用とで違うの!いいから早く持ってきて!」
エリーゼに怒鳴られながらも、ルシアンは雑用をこなす日々を送っていた。
——カルテ整理、清掃、荷物運び。
それだけではなく、オリカに無理やり手伝わされる形で患者の介助までやる羽目になった。
(……こんなはずじゃなかったんだけどな。)
ヴァルキアを逃げ出し、自由を求めて旅をしてきたはずなのに——
なぜか今、医者の助手みたいなことをしている。
おかしい。
おかしいはずなのに——
(……意外と、悪くねぇ。)
そう思ってしまう自分に、ルシアンは少しだけ戸惑いを覚えていた。
「はい、息を吸って……そう、ゆっくり吐いて」
「……ぜぇ、ぜぇ……」
肺炎を患った老人の背中をさすりながら、オリカは優しく声をかける。
「もう少しよ、頑張って」
「……お、俺は……だ、大丈夫か……?」
「熱も少し下がってきてるし、肺の音も改善してる。もうちょっとしたら楽になるわ」
オリカが微笑むと、老人は 安心したように力を抜いた。
「はぁ……ありがとよ、先生……」
(先生、ねぇ。)
ルシアンはそのやりとりを少し離れたところで見ていた。
(……医者ってのは、こういうもんなのか?)
“患者を助ける”ということが、こんなに単純で、こんなに当たり前のものだとは思わなかった。
ヴァルキアでは、“医療”とは 特権階級のためのものだった。
助かるのは、金を持っている者、力を持っている者、それだけ。
(でも、ここは違う。)
貧しい者も、年老いた者も、オリカは同じように治療を施している。
それが彼女にとっての“普通”なのだ。
「ルシアン先生」
「……は?」
突然呼ばれて、ルシアンはびくっと肩を跳ねさせた。
「な、何だそれ」
「いや、最近みんながそう呼んでるわよ?」
オリカは笑いながら言う。
「雑用係としては優秀だし、そろそろ助手として認めてもいいかなって」
「やめろ、ふざけんな」
ルシアンは顔をしかめた。
(……俺は、医者なんかじゃねぇ。)
でも——
(“ルシアン先生”ねぇ。)
その言葉が、ほんの少しだけ悪くないと思ってしまった自分がいた。
ルシアンは診療所の中庭で、ひとりベンチに腰掛けていた。
——夕刻の空。
橙と藍が溶け合う静かな時間の中、彼はじっと自分の左腕を見つめていた。
袖をまくると、
そこには薄らと残る黒死病の痕があった。
(本当に、俺は治ったのか?)
魔法によって症状は消えた。
だが、ヴァルキアでは 「黒死病にかかった者は、一生感染源だ」 と言われていた。
(もし、それが本当なら——。)
(オリカは“問題ない”って言ってたけど……本当にそうか?)
もし、また症状が出たら——
もし、この診療所で また病人が出たら——
ルシアンは ゆっくりと拳を握る。
(俺のせいで、この診療所に病気が広がったら……?)
(……俺は、“本当にここにいていいのか”……?)
その思いが頭を離れないまま、彼は静かに息を吐いた。