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第82話



ルシアンは 診療室の扉を押し開けた。


朝の光が窓から差し込み、棚にはガラス瓶に詰められた薬草や薬品が整然と並んでいた。


「座って」


オリカはすでに白衣を纏い、手袋をはめていた。


ルシアンは少し面倒くさそうに椅子に腰を下ろす。


「……診察って、何をするんだ?」


「体温、脈拍、呼吸状態のチェック。あとは黒死病の症状がどうなってるか」


オリカは簡潔に答えながら、木製の診察机の上にカルテを広げた。


「シャツ、脱いで」


「……は?」


「上半身の皮膚の状態を確認するの。さっさと」


ルシアンは眉をひそめながらも、仕方なくシャツのボタンを外した。


——そこには、黒死病の痕がまだ薄らと残っていた。


オリカは手袋をした指で、慎重に彼の肩や腕をなぞる。


「……まだ痕が残ってるわね。でも、進行は完全に止まってる」


「ってことは、治ったってことか?」


「一応はね。でも、黒死病の痕はなかなか消えないのよ」


オリカは指を止め、ルシアンの腹部や背中にも視線を落とした。


「痛みや違和感は?」


「特にない」


「よし」


オリカはカルテにさらさらと書き込んでいく。


「体温、測るわよ


「……ん」


オリカはルシアンの額に手を当てた。


魔力を込めた治癒魔法の一環として、オリカの手は微かに温かく、心地よい感触を残した。


「……少し低めね」


オリカは手を離しながら、軽く考え込む。


「食欲は?」


「昨日の飯は、結構食えたな」


「じゃあ問題ないわね」


オリカは手袋を外し、手を軽く鳴らす。


「これで診察は終わり」


ルシアンは深く息をつきながらシャツを着直した。



オリカはカルテを片付けながら、ふとルシアンを見た。


「ねぇ」


「……なんだ」


「あんた、暇でしょ?」


ルシアンは胡乱な目を向ける。


「……なんの話だ?」


「せっかく診療所にいるんだから、何か手伝ってよ」


「は?」


「掃除とか、雑務とか。なんでもいいから」


「俺は患者だぞ」


「治療は終わったし、もうほぼ健康体じゃない」


オリカは腕を組みながら微笑んだ。


「健康なら働くべきでしょ?」


ルシアンは思わず額を押さえる。


(……なんなんだ、この医者は。)


治療が終わった途端、労働を強いるとは。


これはヴァルキアの労働収容所とは別の意味で過酷なのでは?


「……考えとく」


ルシアンは適当に返事をして立ち上がった。


しかし——


「じゃあ、さっそくお願いね」


「……え?」


「カルテ整理と掃除。あと、荷物の運搬」


「ちょっと待て」


「待たない」


オリカは満面の笑みで手を振った。


「頑張ってね♪」


ルシアンはその場で絶望的な表情を浮かべた。


(……俺、何のために逃げてきたんだっけ。)




「はぁ……」


ルシアンはカルテの山を前に、深々とため息をついた。


診療所の書庫には、過去数年分の患者記録がびっしりと詰め込まれている。


その中から 「最近の患者データだけを整理する」 というのが、オリカの指示だった。


「どうせなら、もっと楽な仕事を振れよ……」


ベッドのシーツ交換とか、床掃除とか、荷物運びとか、色々あるだろ。


そう思いながら、ルシアンは適当に紙束を手に取る。


「……なんだ、これ」


紙にはびっしりと医療用語と数値が並んでいた。


(読めねぇ。)


というか、


(これ、本当に俺がやる仕事か?)


ルシアンはしばし紙束を睨みつける。


すると、書庫の入り口からくすくすと笑う声が聞こえた。


「——何、その顔」


ルシアンは顔を上げる。


「……あんたは?」


「エリーゼよ。話は聞いてるわ。ルシアン君、——よね?」


「…ああ」


オリカの助手、エリーゼ・シュトラールが、腕を組んで彼を見下ろしていた。


「どう? 仕事は」


「いや、これは明らかに向いてねぇだろ」


「まぁ、そうね」


エリーゼは微笑むと、机の上のカルテを軽くめくる。


「でも、ほら、せっかくだし覚えたら?」


「何を?」


「病気のこととか」


ルシアンはじっと彼女を見た。


(……病気、ねぇ。)



「君、ヴァルキアから来たんでしょ?」


エリーゼは興味深そうに問いかける。


「ヴァルキアには、医療の知識ってどれくらいあるの?」


「……さぁな」


ルシアンは 肩をすくめる。


「俺は医者じゃないし、そんなの気にしたこともねぇ」


「でも、黒死病のことは知ってるわよね?」


「……まぁ、な」


ルシアンは指でカルテを軽く叩く。


「死ぬ奴は死ぬ。助かる奴は助かる。ただそれだけだ」


「……」


エリーゼは少し眉をひそめた。


「ヴァルキアでは、黒死病にかかった人はどうしてるの?」


「“処分”だ」


「処分?」


「黒死病の患者は、隔離施設に送られる。そこで薬が投与されるが……まあ、まともに回復する奴なんてほとんどいねぇよ」


エリーゼは表情を曇らせた。


「…まぁ、どこも同じよね。でもそれって……本当に“治療“なの?」


「さぁな」


ルシアンは苦笑する。


「俺がいたところは、そもそも治療を受けられる環境じゃなかったしな」



しばし沈黙が流れたあと、ルシアンは カルテをパラパラとめくる。


「……この街は、変だよな」


「変?」


「“治そう”ってするんだな、ちゃんと」


ルシアンは診療所全体を見渡した。


「ヴァルキアじゃ、患者を“治す”って考え自体が薄い。病人は“弱者”だ。役に立たない奴を生かす理由なんてない、ってのがあの国の考えだよ」


エリーゼはぎゅっと拳を握る。


「そんなの……おかしい」


「……そうか?」


ルシアンは少し寂しげに笑った。


「俺は、それが“普通”だと思ってた」


(けど——)


この街は違う。


オリカも、エリーゼも。

この診療所に来る患者たちも——


みんな、生きることを“前提”にしている。


そんな環境が、ルシアンにとっては奇妙で、そして、どこか心地よかった。


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