第80話
静かな空間の中で、ナイフとフォークの音が響く。
夕暮れの余韻がまだ残る中、ロストンの夜景が窓の外でゆらめいていた。
オリカは、 ワイングラスに口をつけながら、ルシアンをちらりと見た。
「ねぇ」
「……なんだ」
「食事をしながらでいいから、教えてほしいんだけど」
「……?」
ルシアンはナイフを止め、オリカを見返した。
「あなた、どこから来たの?」
その言葉に——
ルシアンは一瞬、手を止める。
僅かに視線を落とし、考える素振りを見せた。
「……ヴァルキア帝国から来た」
「それは聞いたけど」
オリカは間髪入れずに切り返した。
「ヴァルキア帝国の市民?」
ルシアンの指がナイフの柄を強く握る。
そして短く息を吐き出しながら、目を細めた。
「そんなんじゃねぇよ」
オリカは眉をひそめる。
「じゃあ……逃亡者ってどういう意味?」
ルシアンの手が止まったまま、しばらく沈黙が落ちる。
(——どう答える?)
ヴァルキア帝国。
あの冷たい鉄と血の支配する国。
俺はただ生きるために、あの国から逃げ出した。
だが、それを言葉にすることが、今はなぜか重かった。
食事の席で話すようなことじゃない。
「……ただ、逃げてきただけだ」
ルシアンはナイフを置き、ぽつりと呟いた。
それだけの言葉だったが——
オリカの視線が、深くなった。
ナイフとフォークの音が止まる。
ロストンの夜景が、窓の向こうで静かに輝いていた。
オリカはワイングラスを指で転がしながら、ゆっくりと口を開いた。
「——なんで逃げてきたの?」
その問いに、ルシアンは 僅かに目を伏せる。
「……。」
沈黙。
オリカはその反応を見逃さなかった。
「正直ね、素性も知らない人間をこの屋敷に置いておくわけにはいかないの」
ルシアンはゆっくりと視線を上げる。
「……そうか」0
「診療所だって、続けていかなきゃいけないの。何か問題が起きたら、困るのは皆なんだから」
オリカの声は冷静だったが、どこか警戒が滲んでいた。
(……ま、当然か。)
ルシアンは軽く息を吐いた。
確かに、彼女からすれば見ず知らずの逃亡者を匿うのはリスクでしかない。
それでも——
ここまでしてくれたのは、彼女なりの誠意だろう。
だからこそ、適当に誤魔化すのも違う。
ルシアンはナイフとフォークを置き、静かに口を開いた。
「……まずは、礼を言うよ」
オリカは少し驚いたように瞬きをした。
「俺はもう死ぬと思ってた。だから、助けてくれたことに関しては、感謝してる」
オリカは少しだけ驚きながら、真っ直ぐに彼を見つめる。
「だったら、話してくれてもいいんじゃない?」
「……悪いが、詳しくは話せない」
微妙な空気が流れた。
オリカは眉をひそめる。
「なんで?」
「……俺にも事情がある。」
「そんなの、誰にだってあるわよ」
「だからこそ、話せない」
ルシアンの声は低く、どこか頑なだった。
オリカは少し唇を噛む。
「……ねぇ、私、あんたにすごく親切にしてると思うのよ?」
「それは……まぁ」
「なら、こっちの気持ちも考えてよ。知らない男を屋敷に泊めるなんて、普通はしないの」
ルシアンは目を細める。
「……俺がそんなに信用できないか?」
「当たり前でしょ」
即答だった。
ルシアンは苦笑する。
「まぁ、そうなるよな」
「でしょ?」
オリカは腕を組み、彼をじっと見つめた。
ルシアンは何気ない調子で尋ねた。
「……ヴァルキア帝国について、どこまで知ってる?」
オリカはフォークを置き、少し考え込む。
「正直、そんなに詳しくはないわ」
「だろうな」
「でも、噂くらいは聞いたことがあるわよ
「噂?」
ルシアンはナイフを指で転がしながら、オリカを見た。
「アウロラ計画——それに、人間の魔獣化を行っているとか、非人道的な実験をしているとか」
オリカは慎重に言葉を選びながら話す。
「実際のところ、それがどこまで本当なのかはわからないけど……ヴァルキア帝国が“やばい国”なのは確かみたいでさ」
「……ふーん」
ルシアンは淡々と相槌を打った。
彼の表情は読みにくく、オリカは少し探るように彼を見た。
オリカは軽く息をつく。
「それで——」
ルシアンは視線を向ける。
「あなたが何から逃げてきたかだけど……」
「……。」
「まさか、実験とか?」
その言葉に、ルシアンの 指が一瞬だけ強張る。
しかし——
すぐに首を横に振った。
「違う
「……そう。」
オリカは彼の動揺を見逃さなかった。
(あの反応……完全に“無関係”ってわけでもなさそうね。)
しかし、今のところそれ以上突っ込むのは得策ではないと判断した。
「でも、お前もあんまり知らねぇんだろ?」
ルシアンは僅かに口の端を吊り上げる。
「ヴァルキアのことをさ」
「……まぁね」
「俺もそうだよ」
ルシアンは少し皮肉っぽく笑った。
「“国の事情”なんて、高いところにいる連中しか知らねぇ」
「……そっか」
「ただ、俺は——」
ルシアンは少し遠くを見るような目をした。
「……ただ生きるために逃げてきただけだ」
オリカは彼の目をじっと見つめる。
その目には、何か深いものが沈んでいた。
それが
怒りなのか、
悲しみなのか、
絶望なのか——
オリカにはまだ、分からなかった。
(……この男、一体どんな生活を送ってきたの?)
しかし、彼の口から その答えが語られることはなかった。
しばらくの沈黙の後——
ルシアンはふっと力を抜き、淡々と呟いた。
「ま、そんなとこだ」
「……そう」
オリカは静かに頷いた。
それ以上、今夜は踏み込むことはしなかった。