第8話
「はぁぁぁぁぁ……!」
私は、両腕を大きく伸ばしながら 深呼吸 した。
牢獄の 冷たくて重い空気 から解放され、
太陽の 暖かさと、街の喧騒 を感じることができる——それだけで、最高の気分だった。
「やっぱり外の空気って素晴らしい……!!」
「フフ、まるで鳥かごから出たばかりの小鳥のようですね」
カテリーナ夫人が優雅に微笑む。
横では、ヴィクトールが「まったく……」とため息をついていた。
「さ、行きましょう」
彼は振り返りながら、私に促した。
「あなたを、我が家へ案内します」
「はい!」
私はヴィクトールの後をついて行きながら、ロストンの街を改めて見渡した。
昨日までは「異世界転生したばかり」で何もかもが新鮮 だったけれど——
今日はこの街で生きるための第一歩を踏み出す日だ。
しばらく歩くと、街の雰囲気が変わった。
「うわ……明らかに金持ちエリア……!」
ロストンの 中心部 に近づくにつれ、建物がどんどん豪華になっていく。
石造りの立派な邸宅、
噴水のある広場、
手入れの行き届いた庭園。
そして、私たちが足を止めたのはひときわ大きな屋敷の前だった。
「ここが、アレクシス家の邸宅です」
「……でっか……!」
屋敷は三階建ての巨大な石造りの館だった。
正面の黒い鉄門にはアレクシス家の紋章が刻まれている。
「これ、もしかして……貴族の家より豪華なのでは?」
私は、思わずつぶやいた。
「ええ、ロストンの領主の館よりも広いですよ」
ヴィクトールが淡々と言う。
「アレクシス家は、この街の交易と金融を牛耳る商人ギルドの中心ですから」
「マジか……」
どうやら私は、とんでもない権力者の家に招かれてしまったらしい。
屋敷の中は、外観に負けず劣らず豪華だった。
しかし、私はその華やかさではなく、ある違和感に気づいた。
「……妙に静かですね」
「ええ……屋敷の者たちも、まだ混乱しているのでしょう」
カテリーナ夫人は、少し陰りのある表情で言った。
「黒死病がこの家に入ったと知り、使用人たちも怯えているのです」
「……」
それは、当然の反応だ。
この世界で「黒死病」は不治の病とされている。
かかったら 死ぬしかない。
「でも……」
私は、昨日の出来事を思い返す。
確かに、私の治癒魔法では黒死病を完治させることはできなかった。
しかし——
「……少しだけ、症状が和らいでいるようです」
「えっ?」
私は驚いて、カテリーナ夫人を見た。
「もちろん、まだ安心はできません」
「でも、治癒魔法のあと、息子の熱は少し下がり、呼吸も楽になったようです」
「……!」
治せなかったけど、効果はあった?
これは 単なる延命措置なのか、それとも……?
「……あなたは、いったい何者なのですか?」
ヴィクトールが、鋭い視線を向けてきた。
「なぜ、あのような魔法を使えるのです?」
「……」
私は 少し考えた。
異世界転生者であることは、当然話せない。
でも、「何者でもない」と言うのも不自然すぎる。
そこで、私はひとつの嘘をつくことにした。
「……私は、遠い場所から来ました」
「遠い場所?」
「ええ。先ほども言いましたが、医学を学び、ゆくゆくは”医者“として独立するために、ロストンへ来たんです」
ヴィクトールとカテリーナ夫人が、じっと私を見つめる。
何かを探るような目。
けれど、彼らは それ以上、深くは追及してこなかった。
「……そうですか」
「……この街の医療は、遅れていますからね」
どうやら、彼らは 私のことを “医療技術のある異国の者” と解釈したらしい。
嘘だけど……まぁ、大筋では間違ってないし、いいよね!?
「とにかく、もう一度 息子さんの様子を見させてください」
「ええ、構いませんが、ひとつお願いが…」
「お願い…?」
「息子の他に、看病していた使用人にも黒死病が移っていて…」
「それで…?」
「できれば、あなたの”魔法”を使っていただければと…」
「構いませんが、効くかどうか…」
「……それでも、お願いします」
私はヴィクトールたちに案内され、少年の部屋へ向かった。
最初に会った時は、どうやら少年は父親と散歩中だったらしい。
普段は寝たきりで、食事もままならないほど重篤な状態だそうだったが、車椅子に乗せられ、外の空気を吸えるほどに体調が優れていたそうだった。
散歩中に症状が悪化し、近くの家のベットに急いで運ばれた。
街の医者を呼ぶために父親は走り回っていたそうだが、たまたまそこで、私が通りかかったというわけだ。
部屋の中は重たい空気に包まれていた。
ベッドの上には、衰弱した”ルイス“という名の少年が横たわっている。
そして、その横には、彼の看病をしていたという「使用人」がいた。
私は、慎重に彼女の顔を観察しながら、そっと手を額に当てた。
「……高熱」
皮膚は異常なほど熱い。
おそらく40度以上の発熱が続いている。
日本にいた頃、感染症について学んだ時に発熱が40度を超えると、免疫系が過剰に活性化し、多臓器不全を引き起こす危険性があると聞いた。
「脈を診ます」
私は彼女の手首に触れ、橈骨動脈を探った。
触れた瞬間、異変に気づいた。
「……頻脈」
1分間に140回近い脈拍。
この年齢でこの頻脈は明らかに異常だ。
普通なら 発熱時の代償反応としての頻脈 だと考えるが、それにしても心拍数が高すぎる。
循環器系に何らかの異常がある可能性がある……。
「次に、呼吸状態を確認します」
彼女の胸郭の動きを観察する。
胸部の過剰な動き、努力呼吸、呼吸回数の増加……
「……これ、敗血症性ショック に移行する可能性があるんじゃ……?」
敗血症は、細菌やウイルスなどの病原体が血流に乗り、全身の炎症反応を引き起こす状態を指す。
発熱、頻脈、低血圧、そして 呼吸不全。
この症状の組み合わせは 敗血症の進行を示唆している。
「このままでは、あと数日以内に敗血症性ショックで臓器不全を起こす可能性が高い……!」
心拍数の異常な上昇、呼吸の乱れ、発熱の持続。
それに加えて——
「この皮膚の黒色斑点……」
紫黒色の皮疹 が、四肢を中心に広がっている。
「血栓か……?」
私は思わず呟いた。
敗血症の進行に伴い、全身の血管が損傷し、DIC(播種性血管内凝固症候群) を引き起こすことがある。
DICとは、体内の血液凝固機構が異常に活性化し、無数の小さな血栓が全身の微細血管に詰まる現象 だ。
「皮膚の色調変化と、出血斑……典型的なDICの兆候だ」
敗血症 → DIC → 多臓器不全 → 死亡
この流れに進行している可能性が高い。
「……でも、おかしい」
私は もう一度、皮膚の黒色斑点を注意深く観察する。
これは単なる皮下出血や壊死ではない。
黒死病は「黒い斑点が出るから黒死病」と呼ばれているが、これは普通の感染症の壊死とは異なる。
「色素沈着のような……?」
皮膚の一部が、まるで体の中から黒く染まっていくような変色をしている。
これが、黒死病の特徴的な症状なのか……?
「……今のところ、家族の方には感染の兆候はありませんか?」
私は、傍らで心配そうに見つめるカテリーナ夫人に尋ねた。
「いいえ……今のところ、私も主人もとくに異常はありません」
「……」
私は 黒死病の伝染力 について考えを巡らせた。
黒死病が 伝染病 であるなら、家族や近くにいる人々にも感染するはずだ。
しかし、現時点で使用人以外に発症者はいない。
「普通の疫病なら、もっと爆発的に感染が広がるはず」
でも、この病気はそこまで感染力が強くないように見える。
感染症というよりも、もっと 特殊な要因が絡んでいる可能性が高い……?
「……とにかく、もう少し調査を進める必要がある」
私は、ルイスと使用人の容態をもう一度確認しながら、小さく息を吐いた。
「オリカ様……何か、わかりましたか?」
カテリーナ夫人が、不安そうに尋ねる。
「……正直、まだ確証はありません」
「でも、一つだけわかりました」
私は、使用人の手を握りしめた。
「この病は……ただの感染症じゃない。」
「……!」
私は、この病の秘密を暴くことを決意した。
“医道“を志す者の端くれとして、成長していくために——!