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第78話







静寂の中——


薄ぼんやりとした光が、まぶた越しに差し込む。


ルシアンは、ゆっくりと意識を取り戻した。


(……ここは……?)


目を開くと、そこには清潔な白い天井。


柔らかなシーツに包まれたベッド。


薬草の香りがほのかに漂う室内。


(……病室か。)


自分はまだ生きている。


それを確認すると同時に、 体の感覚が驚くほど軽くなっていることに気づいた。


(……黒死病は……?)


自身の腕を見た。


以前まで紫色に浮かび上がっていた病変は、かなり薄くなっている。


かつてのあの激痛は、まるで夢だったかのように消えていた。


(……本当に、治療されてるのか……?)


疑問と安堵の入り混じる感覚。


ゆっくりとベッドから体を起こした。


外が見たい。


そう思い、 窓辺へと歩み寄る。


カーテンの隙間から覗いた先には——


青い空と、暖かな日差し。


(……こんなに穏やかな景色、いつ以来だろう。)


長い間、 牢獄のような収容所の壁しか見てこなかった。


その時——


扉の向こうから、人の話し声が聞こえてきた。



ルシアンは そっと扉を開けた。


そこには——


活気に満ちた診療所の受付が広がっていた。


カウンターの前には、 数人の患者たちが順番を待っている。


薬を受け取る者、診察の順番を聞く者、助手たちと談笑する者——。


ルシアンは、思わずその光景に見入った。


(……これが、“普通の医療”か。)


自分が知っている 「治療」 とはまるで違う。


収容所では病人はただ放置され、死ぬのを待つしかなかった。


(ここでは……誰もが、生きるために治療を受けている。)


その事実に、 強烈な違和感を覚えた。


こんな世界があるなんて——。


その時、 見覚えのある黒髪が、部屋の窓越しに映った。


「——おい」


ルシアンが扉を押し開けようとした瞬間——


「あっ!! ちょっと待った!!!」


慌てた声が飛んできた。




オリカが、 患者の対応をしていた手を止め、驚いた表情でこちらを見ていた。


「ちょっとちょっと! どこに行くつもり!?」


ルシアンは軽く肩をすくめる。


「外だ」


「は!? ダメに決まってるでしょ!?」


オリカは駆け寄ってきて、ルシアンの肩を押し戻す。


「あなたは今“隔離中”なの!うちの診療所では、 黒死病の患者は感染対策ができるまで“一般エリア” には出ちゃいけないって決まりなの!」


「……そういうルールか」


「そういうルール!!」


ルシアンは小さく鼻を鳴らした。


(……やれやれ、監禁されてるみたいだな。)


「仕事が終わったら行くから、ちょっと待ってて」


そう言って、オリカはバタバタと受付に戻っていく。


「ちょ、ちょっと待て!」


「待つの!! 黙って部屋に戻って!!」


有無を言わさぬ勢いに、ルシアンは少しムッとしながらも、仕方なく部屋へ戻ることにした。




扉を閉めたあと、ルシアンは壁にもたれかかる。


窓の外からは、 診療所の活気が聞こえてくる。


(……変な場所に来たな。)


けれど妙な居心地の良さを感じていた。


外の世界が、 こんなにも“生”に溢れているなんて。


(……俺は、まだ生きている。)


そう実感しながら、 ルシアンは静かに目を閉じた。




カン、カン——


扉をノックする音が、静かな病室に響いた。


「ルシアン、入るわよ。」


ドアの向こうから、オリカの声がする。


ルシアンはベッドに腰掛けたまま、そちらに目を向けた。


「……もう終わったのか?」


オリカは肩をすくめる。


「ええ、やっとね。今日も疲れたわ」


彼女の額にはわずかに汗が滲んでいる。


「あんたもそろそろ、お風呂入ったら? ずっと寝てたでしょ」


「……風呂?」


ルシアンは、 少し面倒くさそうに髪をかき上げた。


「しばらく入ってなかったでしょ? 体洗わないと気持ち悪くない?」


「別に、慣れてる」


「……ダメよ、そんなの!」


オリカはジト目で睨む。


「というか、黒死病の痣がまだ少し残ってるでしょ?屋敷に行くときは、それが見えないように長袖を着て」


ルシアンは不服そうにため息をついた。


「……屋敷?」


「うちのね。今日はそこで夕飯食べるの」


「……俺が?」


「当然でしょ。食事だって療養のうちなんだから」


ルシアンは、 何か言い返そうとしたが、結局黙って立ち上がった。




診療所を出ると、街は黄金色に染まっていた。


夕陽が石畳を優しく照らし、家々の窓ガラスに赤い光が反射する。


ロストンの街並みは、 活気に溢れつつも、どこか落ち着いた雰囲気があった。


「……やっぱ、綺麗だな」


ルシアンは目を細めながら、街の景色を眺めた。


ロストンにきて数週間。


様々な文化が入り混じるこの街並みを何度も目にしてきたが、改めてその景色を見ると、自然と目を奪われてしまうような“趣”があった。


──この街の空気は、どこか懐かしい。


ヴァルキアの都市とは違う。

戦火の匂いも、監視の目もない。

ただ人々が、穏やかに暮らしているだけの場所。


石造りの建物が立ち並び、街路樹の葉が風に揺れている。

市場の方からは、 パンの焼ける香ばしい匂いと、商人たちの掛け声が聞こえてくる。


小さな噴水のある広場を横切ると、 子供たちが遊びながら笑い合っていた。


(……こんな街もあるんだな。)


「ほら、ついてきて」


オリカがさっさと歩いて行くのを見て、ルシアンは小さく息を吐いた。


(……まぁ、しばらくはこの街にいるしかなさそうだな。)




屋敷の前に着いた瞬間、ルシアンは言葉を失った。


「……なんだ、これ」


ロストンの街の中でも、一際目を引く巨大な邸宅。


重厚な鉄製の門がそびえ、左右には見事に刈り込まれた生け垣。


門の奥には広大な庭園が広がり、噴水の水音が静かに響く。


石畳の小道が屋敷の正面玄関へと続き、その両脇には四季折々の花が咲き誇る花壇。


「……貴族か何かか?」


ルシアンは思わずオリカを見た。


「ううん、大商人」


「……大商人?」


「この屋敷はアレクシス家のものよ。私がお世話になってるの」


ルシアンは門の向こうにそびえる豪奢な屋敷を見上げた。


大きな窓が並ぶ白い石造りの建物。

彫刻が施された柱。

扉には、美しい金細工の装飾が施されている。


(……なるほどな。)


この屋敷を見て、この家がただの商人ではないことを悟る。




屋敷の中に足を踏み入れると、さらに圧倒された。


「……すげぇな」


広々としたエントランスホール。


白と金を基調とした大理石の床が、夕陽を受けて輝いている。


中央には豪華なシャンデリアが吊るされ、壁には繊細なタペストリーが飾られていた。


絵画や彫刻の数々が、文化と財力を物語っている。


「ここで靴を脱いで」


オリカに言われ、ルシアンは言われるがまま靴を脱ぐ。


廊下に入ると、柔らかなカーペットが敷かれていた。


まるで足元を雲が支えているかのような感触。


「……お前、普段こんなとこにいるのか?」


「まぁね」


「……信じられねぇな」


ルシアンは、思わず鼻を鳴らした。



「とりあえず、あんたはまずお風呂」


オリカは指をさす。


「風呂場はあっち。お湯はすでに沸いてるから、勝手に入ってきなさい」


「……あぁ」


ルシアンは言われるがまま浴場へ向かう。


重厚な木製の扉を開けると——


そこには広々とした風呂場があった。


(……貴族かよ。)


大理石の浴槽に、蒸気が立ち込める温泉のような浴場。


壁には美しい彫刻が施された鏡。


アウル村やベルグハルトの粗末な風呂とは、比べ物にならない。


ルシアンはため息をつきながら服を脱ぎ、湯船に浸かった。


(……こんな贅沢、久しぶりだな。)


ぬるめの湯が、ゆっくりと疲れを癒していく。


彼はしばらく、無言のまま目を閉じた。



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