第77話
ルシアンは走った。
闇の中を、ただ、ひたすらに。
冷たい夜風が 頬を裂く。
喉は乾き、呼吸は乱れ、 手足の感覚さえなくなっていた。
それでも走るしかなかった。
(……生きて……)
(……生きて……逃げて……)
妹の最期の言葉が、鼓膜にこびりついて離れない。
逃げた先に何がある?
どこへ行けば、何が待っている?
わからない。
何もわからないまま、ただ……
死んだ妹の命令に従って走るしかなかった。
《ヘルブリンゲン》を抜けると、そこは終わりのない銀世界だった。
ヴァルキア帝国北東部、グレイヴェル高原。
白と灰色だけの 無機質な大地。
吹雪。
目を開けていられないほどの猛吹雪が、視界を塞ぐ。
(……寒い……)
(……死ぬ……)
ルシアンは、 ただ自分の体を抱きしめて耐えた。
もし 一歩でも気を緩めれば、そのまま雪に埋もれて終わる。
「くそ……」
生きろ。
頭の奥で、 誰かの声がした。
(生きる? なんのために?)
レナは死んだ。
俺だけが 生き延びて、何になる?
だが——
「……生きろ……」
(……っ!)
ルシアンは、 目の前に現れた光を見た。
雪の中に、かすかに 人影が揺れている。
(村か……?)
本能的にその灯りへと向かった。
辿り着いたのは、 ヴァルキアの国境近くにある小さな村だった。
名前も知らない。
地図にも載らない。
ただ、雪の中で ひっそりと生き延びてきた人々がいる場所。
「おい、誰か倒れてるぞ!」
「おいしっかりしろ!」
ルシアンは気を失った。
目を覚ますと、 小さな小屋の中にいた。
暖炉の炎が、揺れていた。
「目を覚ましたのか。」
そこには白髪の老人がいた。
「……ここは……」
「アウル村だ」
ルシアンは、 毛布に包まれながら、自分の腕を見る。
まだ、 黒死病の痣が残っていた。
(……感染してるのに、どうして生かされた?)
「お前さん、ヴァルキアから逃げてきたのか?」
老人の声は、 静かで穏やかだった。
ルシアンは 答えなかった。
「……しばらく、ここにいなさい」
「お前の体が回復するまでは、な」
(……なぜ、助ける?)
それでも、ルシアンは 逆らう力すら残っていなかった。
その夜——
ルシアンは久しぶりに温かいスープを飲んだ。
アウル村には、 長くはいられなかった。
ヴァルキアの追手が近づいていると知り、 再び逃亡の旅へ出た。
(……どこへ行けばいい?)
何もない。
帰る場所など、どこにもない。
それでも、 ルシアンは歩き続けた。
「——俺は、生き延びる」
この言葉を呪いのように唱えながら。
だが、アウル村を出た直後、 冷たい風が容赦なく彼の体温を奪った。
吹雪の高原。
乾いた大地。
限りなく広がる灰色の空。
食料も、水もほとんどない。
(……このままでは、いずれ死ぬ。)
どこかに 人がいる場所はないか?
視界の先に—— ぼんやりと明かりが揺れていた。
(……町か?)
足を引きずりながら、ルシアンはその光を目指した。
《ベルグハルト》。
グレイヴェル高原の端に位置する交易都市。
ヴァルキア帝国の 最果てに位置するこの都市は、地理的にも政治的にも半ば忘れ去られた存在だった。
住むのは、
商人、流れ者、追放された者たち。
秩序はない。
しかし 生きるための術だけはある。
(……ここなら……食べ物が手に入るか?)
街の入り口で、ルシアンは 痩せた馬を引く男に声をかけられた。
「おい、兄ちゃん。そんなボロボロで大丈夫か?」
目を向けると——
そこには歳のいった行商人 がいた。
粗末な麻の服 を着て、背には 大きな荷物を背負っている。
「この街で、何か売り買いする金はあるのか?」
ルシアンは何も持っていなかった。
「……ない」
「ははっ、それは困ったな」
男は 豪快に笑った。
「まぁ、腹が減っているなら、一杯のスープくらいなら恵んでやるさ」
そう言って、 行商人はルシアンを酒場へ連れていった。
「……お前、名前は?」
「ルシアン……ヴァイス」
行商人はにやりと笑う。
「俺はバルドってんだ。」
「ヴァルキアの辺境を回って、色んな物を売ってる」
目の前に熱いスープが置かれる。
ルシアンは飢えた獣のように、それをかきこむ。
「おいおい、落ち着けよ」
「まるで何日も食ってなかったみたいだな」
「……そうだ」
「ははっ、そりゃ酷いな」
バルドは 面白がるように笑いながら、ワインを飲む。
「どうだ、少しでも力が戻ったか?」
「……あぁ」
「なら、しばらく俺の手伝いでもするか?」
ルシアンは顔を上げた。
「……手伝い?」
「そうさ。どうせこの街に長くいるつもりはねぇんだろ?」
「だったら、俺の荷物を運ぶ手伝いをしながら、ラント帝国を目指してみるのはどうだ?」
“旅の商人の護衛” という形で、ルシアンは バルドと共に旅をすることになった。
ベルグハルトを出たルシアンは、 過酷な大地を進んだ。
旅の道中には——
巨大な渓谷
果てのない荒野
冷たく暗い洞窟
山脈を超える隘路
——様々な試練が待っていた。
《死者の渓谷》
ベルグハルトを出て 北へ進むと、そこには 果てしなく広がる巨大な裂け目 があった。
ヴァルキアの北部と、中央部を隔てる《死者の渓谷》。
大昔、 帝国の戦争によって生まれた大地の傷跡。
「ここを通るのは、骨が折れるぜ」
バルドは ため息をつく。
「この渓谷には、盗賊も出るしな」
実際、 数日後には盗賊の襲撃を受けた。
ルシアンは 生き延びるために剣を握り、初めて人を斬った。
血の臭いが 手についたまま、夜を迎えた。
(……これが、生きるってことか。)
《灰の荒野》
渓谷を抜けた先には、 一面の荒野が広がっていた。
大地は乾き、黒く焦げたような砂が続いている。
かつて、 ここは豊かな森林だったという。
しかし、 ヴァルキアの戦争と過剰な採掘によって、森は死んだ。
「何もねぇな。」
バルドが 馬の背からつぶやく。
「だが、これが帝国のやり方さ」
ルシアンは 沈黙のまま、夜空を見上げた。
星が、まるで 嘆いているように光っていた。
《嘆きの洞窟》
荒野を抜けると、 次は洞窟だった。
「ここを通らねぇと、ラント帝国には行けねぇ」
洞窟はまるで巨大な獣の口のようにぽっかりと開いていた。
その内部は真っ暗闇。
「ここには魔獣もいる」
「くれぐれも音を立てるな」
バルドの忠告を受け、 ルシアンは剣を握りしめた。
静寂の中——
どこからか滴る水の音が聞こえる。
まるで、 この洞窟そのものが生きているかのようだった。
「——行くぞ」
闇の中へと、 足を踏み入れた。
幾つもの地形を超え、幾つもの困難を乗り越えた。
何年か旅を共にしたバルドとは、ラント帝国の国境で別れた。
「……世話になった」
「気にすんな」
「俺は行商人だ。出会いも別れも、商売の一部みてぇなもんさ」
バルドはそう言って、ルシアンの肩を叩いた。
「お前さんは、どこへ行くんだ?」
「……自由な場所へ」
「いいねぇ」
「——生き延びろよ、ルシアン」
馬にまたがる行商人の後ろ姿を見送りながら、ルシアンは拳を握った。
(……俺は、まだ生きている。)
そして、彼は ロストンを目指した。