第76話
◇
——夢の中の収容所
目を開けると、そこは地獄の入口だった。
ヴァルキア帝国第六特別収容所——通称。
帝国の北東部、永遠に凍てつく《グレイヴェル高原》の中央に位置する。
雪と氷に覆われた大地。
寒風が吹き荒れ、生存することさえ困難な環境。
しかし、 ここには確かに“人”がいた。
——囚われた者たち。
薄暗い空。
雲はどこまでも灰色に沈み、陽の光は収容所の内部には届かない。
巨大な石造りの建物が並ぶその場所は、“生” ではなく “死” を生産するための施設だった。
正門には、黒鉄で作られた 《労働こそが未来を創る》 の標語。
(未来なんて、どこにもねぇのにな。)
ルシアンは少年だった。
身にまとうのは薄汚れた囚人服。
足元には使い古された木製のサンダルが無造作に転がっている。
それを履く気にもなれず、 裸足で冷たい石畳の上に立つ。
空気は澱み、 鉄錆と血の臭いが混じる。
監視塔の上にはヴァルキア帝国の紋章を掲げた旗が、冷たい風に揺れていた。
この場所に 「名前」 などない。
人間ではなく、 番号だけが識別される場所。
ルシアンの左腕には、 焼き付けられた刻印があった。
《E-01672》
E——エゼル人の証。
この収容所には、 ヴァルキア帝国によって「不要」とされた者たちが送られてくる。
エゼル人。
異端者。
帝国の政策に反対した反体制派。
彼らは皆、 「再教育」の名のもとに、この地に収容された。
しかし、 実態はただの奴隷労働施設だった。
ルシアンは生まれた時から“異端”だった。
世界樹の加護を受ける民族——エゼル人。
かつて彼らは、 大陸全土に広がる文明を築き、自然と共存することを選んだ民だった。
しかし、 ヴァルキア帝国はそれを「進歩を妨げる存在」と見なし、異端として弾圧。
ヴァルキアの成立とともに、 エゼル人の文化は破壊され、彼ら自身も根絶やしにされようとした。
その中で 生き延びた者たちが、こうして収容所へと送り込まれる。
「——立て。」
低く冷たい声が響く。
ルシアンは疲れた体を引きずりながら立ち上がった。
そこには、 黒い軍服に身を包んだヴァルキア帝国の監視兵がいた。
「労働に出る時間だ。」
その言葉に誰も逆らえない。
収容所では、労働こそが「生きる証」だった。
働ける者はまだ「価値がある」と見なされる。
働けなくなれば、 「処分」されるだけ。
それがこの場所のルールだった。
収容所では 人権など存在しなかった。
彼らは 毎日、過酷な労働に従事させられた。
《グレイヴェル鉱山》での採掘作業。
武器工場での組み立て。
凍てつく風の中での農耕作業。
監視兵は決して手を貸さない。
彼らの役目は 「規律を維持すること」 だけだった。
倒れた者は、そのまま放置される。
ある者は 寒さで指を失い、
ある者は 崩落した岩に潰され、
ある者は 「労働拒否」として銃殺された。
夜になっても、 まともな食事はない。
水は汚れ、食事は硬い黒パンとわずかな豆スープだけ。
「……ルシアン……」
かすれた声が聞こえた。
妹のレナ だった。
10歳にも満たない幼い少女。
だが、彼女もまた この収容所に囚われていた。
「大丈夫……?」
ルシアンは妹の手をそっと握った。
(——大丈夫なわけねぇだろ。)
(でも……言えねぇよな。)
レナの小さな手には、無数の痣があった。
監視兵に殴られた跡。
(くそったれが……。)
(……俺が強かったら、こんな目に遭わせなかったのに……。)
ルシアンは唇を噛み締めた。
ある日、 収容所で異変が起こった。
——黒死病の感染。
実はこの収容所では、エゼル人を実験台にする「疫病研究」が秘密裏に行われていた。
“黒死病に対する耐性を持つかどうか”
それを試すために、 感染を意図的に広げられたのだ。
しかし、 想定を超える速さで感染が拡大。
収容所内はパニックに陥った。
監視兵たちも混乱し、次々と逃げ出す者が現れる。
——今しかない。
ルシアンは 仲間たちと共に、脱走を決意した。
しかし——
銃声が響く。
逃げる途中、 レナが撃たれた。
「レナ……! しっかりしろ……!」
「お兄ちゃん……」
小さな手がかすかに震える。
「……逃げて……」
「バカ言うな! 俺は……!」
「生きて……お兄ちゃん……。」
その言葉を最後に、 レナの瞳から光が失われた。
ルシアンの 絶叫は、収容所の夜空に虚しく響いた。