第75話
ロストンに戻ってから数日が経った。
診療所には、次々と患者が訪れ、オリカは休む暇もなく治療に追われていた。
フィオナの聖草を調合した薬は一定の効果を示し、患者の症状を和らげていた。
しかし——
(黒死病の根本的な治療にはなっていない。)
オリカは夜の帳が降りた診療所で、カルテを整理しながら思案していた。
ランプの淡い光が書類の影を揺らす。
(本当に、どうしたら……。)
ペンを走らせていると——
コン、コン……。
診療所の扉が小さくノックされた。
「……こんな時間に?」
オリカは立ち上がり、扉を開けた。
そこに立っていたのは——
夜の闇に溶け込むような黒いフードを纏った人物だった。
「……すまない、遅くに」
低く落ち着いた声。
オリカは眉をひそめた。
「あなたは?」
「……治療を受けたい」
男はフードの奥から、鋭い視線を覗かせた。
オリカは警戒しながらも頷く。
「中へどうぞ」
男が診療所へと足を踏み入れると——
その動きに、 違和感を覚えた。
(……歩き方が不自然?)
(どこか、怪我を……。)
オリカが 観察していると、男はフードを外した。
銀の髪が、月光を受けて淡く輝く。
緑色の瞳。
翡翠のような色彩が、じっとこちらを見つめていた。
「……何の用?」
男は ゆっくりと袖をまくる。
そこには——
色白で擦り傷だらけの肌が、そっと顔を覗かせていた。
「俺は、ただの“通りすがりの者”だ」
オリカは息を呑んだ。
「……っていうか、お前が“医者”なのか?」
男はかすれた声で言った。
不信感を滲ませた、低く鋭い声。
「そうだけど?」
オリカは男の前に腕を組んで立つ。
「アンタ、相当悪そうね。何があったの?」
男は、しばし沈黙する。
彼の 頬は痩せこけ、唇は乾いて青白かった。
——そして何より。
彼の腕から覗く皮膚に、黒い痣が広がっているのが見えた。
(黒死病……!)
オリカの脳裏に警鐘が鳴る。
「すぐに中に入って!」
オリカは男の腕を引いた。
彼はふらつきながらも、言われるがままに診療所へ足を踏み入れた。
ベッドに横たわる銀髪の男——
彼は、“ルシアン・ヴァイス”と名乗った。
オリカは、彼の腕を取り、丁寧に袖をまくった。
その下に広がっていたのは、 黒く変色した皮膚。
(……酷い。)
痣は腕だけでなく、首筋や胸元にまで及んでいた。
「……いつからこの状態なの?」
「……覚えてねぇ」
「嘘。数日もすれば死ぬわよ、…この状態」
オリカの指先が、 ルシアンの肌の温度を確かめる。
(体温が異常に低い……心拍も乱れてる。)
(普通なら、もう意識がなくなっていてもおかしくない。)
オリカは眉をひそめた。
「……魔法を使うわよ」
「勝手にしろ」
ルシアンは、天井をぼんやりと見つめながら呟いた。
その瞳は、どこか遠くを見ているようで——
まるで、 生きることを諦めたような目だった。
オリカの胸に、 奇妙な痛みが走る。
(——なんなの、この人。)
(どうして、こんなに簡単に“死” を受け入れようとしてるの?)
オリカは拳を握る。
(そんな顔、見せないでよ。)
(私は、あんたを死なせるつもりなんてないんだから!)
オリカは魔力を集中させ、手のひらを彼の胸に当てた。
「——ヒール・ドライブ。」
淡い金色の光が、ルシアンの体を包み込む。
魔法の光が、黒い痣を包み込んでいく。
オリカは集中し、 魔力を流し込みながら、感染の進行を抑えようとした。
すると——
ズキンッ——!
突然、 脳に鋭い痛みが走った。
(なに……!?)
まるで 何かが自分の魔力を阻害しているような感覚。
いや、違う。阻害されているんじゃない——魔力が“絡みついている”?
オリカの意識がルシアンの魔力と交差する。
(……この感じ、前にもあった……。)
湖の守護者の“干渉” を受けた時と、似た感覚——。
その時。
「……お前、随分と妙な魔法を使うんだな」
低く、かすれた声が響く。
オリカは驚き、 ルシアンを見下ろした。
彼はゆっくりと瞼を開き、オリカを見上げていた。
緑の瞳が、淡く揺れる。
「……魔法が通った?」
(こんな状態で、意識を取り戻すなんて……。)
「……あんた、一体何者?」
オリカの問いに——
ルシアン・ヴァイスは、 静かに微笑んだ。
「——ヴァルキアの逃亡者さ」
それだけを告げると、ルシアンは力なく息を吐いた。
オリカは魔力の光を絶やさぬよう、慎重に治療を続ける。
(……少しはマシになった?)
彼の黒死病の痣はまだ完全には消えていない。
しかし——
「……ふぅ……」
ルシアンの顔から、ほんの僅かだが痛みの色が消えた。
「……少しは楽になった?」
オリカが問いかけると、 彼は微かに頷いた。
「……あぁ……」
それが最後の言葉だった。
ルシアンは、まるで意識を手放すように、深い眠りへと落ちていった。
◇
「……なんなの、この匂い……」
オリカは、 眉をひそめた。
部屋にじわじわと広がる異様な臭い。
(……これは……。)
何日も風呂に入ってない人間の臭い。
それに加えて、 旅の汚れ、汗、血、薬草のような香りが混ざり合っている。
「……こりゃひどいね」
オリカは寝息を立てるルシアンの髪をかき上げた。
(ボサボサ……。それに、埃っぽい。)
彼の銀髪は美しいが、酷く汚れていた。
そして——
衣服もボロボロ。
(……まさか、逃げてきたっていうのは……。)
(本当に、ヴァルキアからずっと旅をしてきたってこと?)
オリカは彼の腕をそっとまくる。
(……この痣……それに、この肌の傷。)
かすかに残る古い火傷の跡や、無数の小さな傷痕。
(まるで……何かに刻まれたみたい。)
オリカはしばらくルシアンを観察した後、静かに立ち上がった。
「……このままじゃ、他の患者に悪影響があるわね」
オリカはカイルとエリーゼを呼び、ルシアンを別室へ移動させることにした。
「ちょっと、これ本気で臭いんですけど……」
カイルが鼻をつまみながらぼやく。
「仕方ないでしょ。下手に動かせないし、しばらくは隔離するしかない」
「まったく……。こんな状態で、よくロストンまで辿り着けましたね」
エリーゼは少し険しい顔をしながらルシアンを見下ろす。
「オリカ、大丈夫なんですか? 彼、信用できます?」
「……今のところはね」
オリカは腕を組んだまま、ルシアンの寝顔を見下ろす。
(信用できるかはまだ分からない。)
(でも、助けない理由もない。)
「とにかく、まずは彼を回復させないと」
「お風呂はどうします?」
「それよね……」
オリカは 頭を抱えた。
(この状態で風呂に入れるのは無理……。)
「とりあえず、タオルで拭くしかないかぁ」
「……お疲れさまです」
カイルとエリーゼは 同情するようにオリカを見つめた。
(まったく、医者っていうのは、こういう仕事も入ってくるのよね……。)
オリカはため息をつきながら、タオルとお湯を用意した。
ルシアンは静かに眠っていた。
(……よく寝てるわね。)
オリカはゆっくりとタオルを絞り、彼の額を拭った。
(ヴァルキアから来たって言ってたよね……。)
(名前も知らないまま、こんなふうに世話することになるなんて。)
タオルを 彼の頬に当てると、ルシアンは微かに眉を寄せた。
(……少しでも、休めばいいわ。)
(きっと、長い間、まともに眠れなかったでしょうし。)
オリカは静かにルシアンの髪を撫でた。
銀の髪。緑の瞳。謎の多い男。
彼の正体が何であれ——
今はただ、 命を繋ぐことが最優先だった。