第68話
澄み切った水は、まるで世界そのものを映し込む鏡のように静かで——
けれども、その奥深くで、確かに何かが“息をしている” 気配があった。
(湖の底にある“何か”……それが、光を放っている。)
(まるで、生きているみたいに。)
エリーゼが水に手をかざし、魔力を集中させる。
「……やはり、魔力の流れがあるわ」
「どういうこと?」
オリカが問いかけると、エリーゼは慎重に言葉を選びながら答えた。
「水そのものが……何かの“意思” を持っているみたいなの」
「水に意思?」
ゼファーが半信半疑で湖を睨む。
「精霊とか、やっぱそういう類のやつか?」
「それに近いけれど、違う」
エリーゼが首を横に振る。
「精霊なら、もっとはっきりとした“形” を持っているはずよ」
「なら、これは……?」
エリーゼは迷いながらも、静かに呟いた。
「……もしかしたら、湖そのものが“守護者” なのかもしれないわ」
「守護者?」
オリカが 眉をひそめる。
「つまり、この湖は“何かを守っている” ってこと?」
「ええ」
エリーゼが 水の表面をなぞるように指を滑らせた。
「この湖に満ちている魔力は、“魔法陣” に近い構造を持っている。
つまり、何かを“封印” している可能性があるわ」
「封印……」
カイルが 険しい表情を浮かべる。
「湖の底にある光……それが封印された“何か” なのか?」
「わからない。でも——」
エリーゼが何かを感じ取るように、水面に目を凝らした。
「これ以上、無闇に触れないほうがいい気がする」
「……ふぅん」
ゼファーが腕を組んだまま、湖を見つめる。
「つまり、何もしない方がいいってことか?」
「…まあ、そうなるかも」
オリカも考え込む。
「この湖が“結界” のようなものだとしたら——」
「じゃあ、ここはひとまず引き上げるか?」
エリーゼは わずかに逡巡しながらも、静かに頷いた。
「……そうね。今は情報が足りなすぎる」
オリカも もう一度湖を見つめた。
(いずれ、ここにまた戻ってくることになるかもしれない。)
(でも今は、無闇に動くのは得策じゃない。)
「……ひとまず、この水を持ち帰りましょう」
オリカたちが 引き返そうとした、その時だった。
——ふっ……ふっ……
微かな 声のようなものが、風に紛れて聞こえた。
「……?」
オリカが振り向く。
湖の水面が、まるで誰かが触れたかのように静かに波打った。
——ぽちゃん。
湖の中心で、小さな泡が弾ける。
「……何かが、呼んでる?」
オリカは本能的に感じ取った。
何かが、湖の底から——
自分たちに向かって“呼びかけている”。
「オリカ?」
エリーゼが 不安そうに呼びかける。
オリカはわずかに首を振った。
「……今のは?」
「わからない。」
エリーゼが慎重に魔力を探る。
「でも、敵意はないわ」
「なら、味方か?」
ゼファーが剣に手をかけたまま言う。
「それも違う」
エリーゼは湖面を見つめながら呟いた。
「これは……ただの“残響” かもしれない」
「残響?」
「ええ。まるで、ここにあった“何かの記憶” が、湖の水に染み込んでいるみたいに……。」
オリカの心臓が高鳴る。
(この湖に眠るものは、いったい何なの……?)
「さて、もう行くぞ」
ゼファーが剣を肩に担ぎながら、気だるそうに言う。
「思った以上の収穫がありましたね」
エリーゼがフィオナの聖草を詰めた袋を大切に抱える。
「帰ったらすぐに乾燥させないとね」
オリカは湖の水を瓶に詰めながら頷いた。
「それにしても、まさかこんなに綺麗な場所が霧の森の奥にあるなんてな」
カイルも湖を眺めながらしみじみと呟く。
(本当に、美しい場所……。)
(何もかも、溶け合っているかのような…)
オリカは 最後にもう一度湖を振り返った。
——その時だった
——「何しにここへ来た?」
「……ッ!?」
張り詰めた声が、風に紛れ、背後から響いた。
オリカは驚いて振り向く。
ゼファーが剣の柄に手をかけ、警戒を強めた。
「……今の、誰の声だ?」
エリーゼも杖を構え、魔力を展開する。
湖の水面が再び揺らめいた。
その波紋は徐々に大きくなり、水が弾けるように立ち上がる。
そして——
湖の中央から、何かが現れた。
湖の水面がまるで意思を持つかのようにせり上がり、形を成していく。
風が吹き抜け、湖を囲む木々の葉が さざめきながら揺れた。
空は どこまでも澄み渡り、雲ひとつない青が広がる。
その青さをまるで映し取るかのように、湖は魔力を帯びた淡い輝きを纏っていた。
「……なんだ、これは?」
ゼファーが目を細める。
「湖が……動いている?」
エリーゼも驚愕の声を上げた。
(まるで、この湖そのものが“生きている” みたい。)
湖の水は 弾けるように宙へと舞い、まるで何かの意志に従うように形を変え始めた。
水の雫が 太陽の光を浴び、七色の光を反射する。
そして、それは ゆっくりと“人の形” へと変わっていった。
湖の中央で、水が人の姿を形作る。
腕、脚、胴体——
そして、最後に顔が形を成し、“それ” はゆっくりと目を開けた。
——深い蒼の瞳が、静かにオリカたちを見つめる。
「……ッ!」
オリカは息を呑んだ。
(これは……生きているの?)
エリーゼが 魔力を探るように目を細める。
「魔獣……では、ない?」
「だが、普通の存在でもねぇな」
ゼファーが慎重に間合いを計る。
水から生まれたその者は淡く発光する身体を持ち、まるで星空の輝きを纏っているようだった。
そして——
その唇がゆっくりと動いた。
「何しにここへ来た?」
その声は穏やかでありながら、冷たく響く。
まるで古の風が語るように、透明で、どこか厳かだった。
「……!」
オリカたちは 一瞬、言葉を失った。
湖の守護者のように佇むその存在は、オリカたちを試すように見つめている。
(この湖に宿る“何か”——それが、私たちに問いかけている?)
オリカは ゆっくりと息を整え、口を開いた。
「私たちは、薬草を探しに来たの」
「……薬草?」
水の守護者は わずかに首を傾げた。
「この森の奥にしか生えない、フィオナの聖草よ」
「フィオナの聖草……」
その名を聞いた瞬間、水の守護者の瞳が鋭く光を放った。
そして——
「……貴様らは、“禁じられた森” へ足を踏み入れたのか」
——大気が、一瞬にして張り詰めた。




