第45話
「もう、後戻りは出来ねぇぜ?」
ルナティアの唇が ゆっくりと吊り上がる。
彼女の手のひらの上に揺らめく黒い球体。
——それは、ただの魔力ではなかった。
ズズ…ズ
押し潰される熱量。
周囲の空気が、沈んだ。
いや、違う。
重力そのものが狂い始めたのだ。
「……な、に……?」
オリカは異様な違和感に気づいた。
■ ルナティアの黒き魔力——“虚影の渦”》
◇ 物質と空間の法則を歪め、引き寄せる“反重力” 作用を持つ
◇ 魔力の密度が異常に高く、周囲のエネルギーを飲み込む
◇ 魔法の概念すらも狂わせ、詠唱の妨害を引き起こす
「くっ……!」
周囲の 瓦礫や石片が、静かに浮き上がり始めた。
まるで “無重力” の世界に迷い込んだかのように。
「……まずい」
セフィナの 瞳が鋭くなる。
(この魔力……!!
こんなの、自然界の法則を完全に無視している……!)
「くそっ……!」
ライゼンが足元の石が浮かぶのを見て、舌打ちをする。
「こいつ……一体どこまで…」
“何か” が狂っている。
この世界の“魔法” の概念では説明できない、
異質な魔力が、今まさに目の前で膨れ上がっていた。
「……面白ぇな」
ルナティアは 薄く笑った。
「こんなこと……長いことやってねぇから、加減が難しいぜ」
不敵な笑みを浮かべながら、ゆっくりと腕を曲げる。
そっと空気を撫でるように。
指で髪を優しくとくように。
開いた手と、迸る冷気——
——バッ
バチバチバチッ!!!
黒い球体の中を 雷光が走った。
紫電が絡み合い、周囲の空間を揺らがせる。
バチィン!!
電撃の奔流が地面を裂き、草木が瞬時に炭化する。
「なっ……!!」
エリーゼが息を呑む。
(魔力のスパークが……こんなに強いなんて!?)
「……もう限界かも」
セフィナが決断する。
「このままじゃ、私たちごと吹き飛ばされる……!」
——詠唱開始。
「梳る羽衣の鱗よ、我が前に堅牢なる幻影を築け!
緊急防壁——“天地の聖壁”」
※対象の周囲に光の障壁を張り、衝撃波から守る
※緊急展開のため、持続時間は短い
※強大な攻撃には耐えられないが、初撃を凌ぐことが目的
——バシュウウウウ!!
黄金色の光が走り、オリカたちの周囲に“透明な半球状の障壁”が発生した。
「っ……なんとか間に合った……!」
障壁は時間を追うごとに確かな質感を帯びていく。
持ち上がる魔力の奔流。
揺れるセフィナの衣服と、——髪。
「フン、そんなもんで防げると思ってんのか?」
ルナティアは 剣呑な笑みを浮かべる。
黒き球体は、さらに膨張していく——。
そして——
「消し飛べよ」
ルナティアが 無造作に手を振る。
その瞬間——
黒き閃光が、空間を裂いた。
エネルギー弾は、まるでゆっくりと脈打つ鼓動のように膨張し、その輪郭が周囲の空気を歪めながら広がっていく。
「っ……!」
オリカは直感的に理解した。
(……これは、私たちを消し去るものだ。)
「くっ、障壁を強化し——」
——遅かった。
「———」
セフィナが張った防壁 が、エネルギー弾の接触と同時に軋む音を立てる。
バチッ……バチバチバチ……!!
まるで薄い氷が砕けるように、光の防壁の表面に亀裂が走る。
オリカの瞳が、その崩壊を“ゆっくりと”追っていた。
微細なヒビが無数に走りながら、光が音を脱ぎ捨てていく。
内側から光の粒子が零れ落ちつつ、空気が軋む。
ビキッ…!と、剥がれていく膜。
そして、最後に障壁が “砕け散った“。
「……あ。」
セフィナが、 短く息を漏らす。
——バァァンッ!!
音が遅れて響く。
黄金の防壁が、光の破片となって弾け飛んだ。
「っ……!!」
黒いエネルギーが、
まるで夜の波のように ゆっくりとうねりながら広がっていく。
(逃げなきゃ——)
そう思った瞬間——
黒い波が、“ゆっくり” こちらへ迫っていた。
周囲の光が吸い込まれていく。
空気すらも圧縮されるような感覚。
「……っ!」
オリカは、 身を捩ろうとする。
だが——
その時だった。
(……あれ?)
オリカの 全身が硬直する。
———静寂。
すべての音が消えた。
目の前に迫っていた黒いエネルギー が、ピタリとその動きを止めた。
空間そのものが、凍りついたかのように。
オリカはゆっくりと視線を巡らせた。
(……なに、これ?)
ライゼンの放った矢が、空中に止まっている。
セフィナの翻るマントが、まるで時間の流れを失ったように静止している。
(まるで……)
(世界が、“止まっている” みたい。)
そして——
「……聞こえますか?」
耳元で 囁くような声 がした。
それは、言葉というよりも——
木々が風に揺れる音のような。
水が静かに流れる音のような。
それでいて、どこか懐かしい声だった。