第29話
「先生、今日は色々あったね……」
屋敷に戻ると、ルイスが少し疲れた様子で椅子に座り込んだ。
彼にとって、久しぶりの外出だったのもあり、港町の賑わいだけでも十分刺激的だったはずだ。
「お疲れ様。ちゃんと休んでね」
オリカはルイスの頭を軽く撫でてやりながら、自分自身も深く息を吐いた。
(それにしても……)
今日の出来事が頭の中でぐるぐると巡る。
市場での噂、診療所に向けられた疑念、そして貴族・エルネスト・グレゴリアンからの脅迫——
(さすがに無視できない…よね)
オリカは、屋敷の執務室に向かい、扉をノックした。
「ヴィクトール、いる?」
「入れ」
中から落ち着いた声が聞こえた。
オリカが扉を開くと、ヴィクトールは机の上に貿易関連の書類を広げ、ペンを手にしていた。
「どうした?」
「ちょっと話があるの。……港町で、貴族に絡まれたんだ」
ヴィクトールは、その言葉を聞いた瞬間、ペンを止めた。
「詳しく話せ。」
オリカは、市場で広がっていた噂、密偵の存在、そしてエルネスト・グレゴリアンとの会話について語った。
「“お前の診療所は近いうちに閉鎖される” って言われたんだ。
正式な医療は修道院が管轄してるから、貴族の許可なくやるのは違法だって。」
ヴィクトールは静かに聞いていたが、オリカが話し終えると、深く息を吐いた。
「……とうとう動いてきたか。」
「ヴィクトール、あのグレゴリアンって何者なの?」
オリカが尋ねると、ヴィクトールは書類を片付け、ゆっくりと組んだ手を顎に添えた。
「グレゴリアン公爵家……ロストンにおける“旧支配者” だ。」
「旧支配者?」
「昔、この港町は完全に貴族の支配下にあった。
特にグレゴリアン公爵家は、ロストンの交易権を独占し、税を取り立て、すべての商人を管理していた。」
「でも、今は違うんでしょ?」
「ああ。今のロストンを動かしているのは“商人ギルド” だ。
……つまり、俺たちアレクシス家が、グレゴリアンの支配を終わらせたんだ。」
オリカは目を見開いた。
「じゃあ、グレゴリアン家は、アレクシス家のことを……」
「目の敵にしている。
商人の台頭によって、自分たちの権力を奪われたからな。」
「……なるほどね」
オリカは、グレゴリアンの態度を思い出す。
「あの男は、アレクシス家と共に滅びるか?」とまで言った。
(つまり、あの貴族はヴィクトールのことを心底恨んでいるってわけね。)
「でも、どうして私の診療所を潰そうとするの?」
オリカは、直接の疑問を投げかけた。
「アレクシス家に直接攻撃を仕掛けるのは難しい。
だが、お前の診療所は、まだ脆弱な存在だ。
そこを狙えば、俺たちに間接的な打撃を与えられると考えているんだろう。」
「……つまり、私はヴィクトールの“弱点” ってこと?」
「そういうことだ。」
ヴィクトールは、少しだけ苦笑しながら言った。
「それに、診療所がこれ以上成功すれば、貴族側には不都合なことが増える。」
「不都合?」
「ロストンの“正式な医療” は、修道院が管轄している。
つまり、治療を受けたい人々は、修道院に依存しなければならない。
……貴族たちは、この構造を利用して“医療” を支配しているんだ。」
「……そうか。つまり、私の診療所が広まれば、人々は修道院に頼らなくなり、貴族の権力が弱まる……」
「その通りだ。」
ヴィクトールの目が鋭く光る。
「お前は、気づかぬうちに”貴族の支配に風穴を開ける存在” になったんだよ。」
「……やばくない!?それ。」
オリカは、頭を抱えた。
(そんなつもりじゃなかったんだけどなぁ……)
でも、確かにこの世界の“医療” には違和感を感じていた。
修道院のヒーラーたちは、魔法でできる範囲の治療しか行わない。
魔法が効かない病にかかった人々は、見捨てられるか、隔離されるしかなかった。
(……私は、その隙間に手を伸ばしただけ。)
(でも、それが“秩序を乱す行為” だと言われるのなら……)
「私は、絶対にやめないけどね」
オリカは、改めて強く決意した。
「おそらく、グレゴリアンはここからさらに動いてくるだろう。」
ヴィクトールは、静かに言った。
「診療所に圧力をかけるだけじゃなく、“商人ギルドの権限” そのものに干渉する可能性がある。」
「……どういうこと?」
「ロストンの商業権を制限し、貴族側が取引を独占しようとするかもしれん。
そうなれば、診療所の資金や物資の流れも止まる。」
「つまり……“合法的な締め出し” を仕掛けてくるってこと?」
「ああ。グレゴリアンの狙いは、お前だけじゃなく、アレクシス家そのものの影響力を削ぐことだ。」
オリカは、拳を握った。
(貴族たちは、こんなやり方で医療を潰そうとするの?)
(……なら、こっちも黙っているわけにはいかない。)
「ヴィクトール、私はどうすればいい?」
オリカの言葉に、ヴィクトールは少しだけ笑った。
「簡単なことだ。
どれだけ妨害されようと、“治療の実績” を積み上げろ。」
「貴族が何を言おうと、お前が“本当に人を救える” と証明すれば、ロストンの人々はどちらを信じるか決めるだろう。」
オリカは、その言葉を聞いて——
「やってやろうじゃん!!」
と、拳を握りしめたのだった。
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【ロストンに於ける主な権力者たち】
①《グレゴリアン公爵家》——伝統を重んじる保守派
▼ 背景:
◇ ロストンの「元」支配者 だった貴族家系
◇ もともと港町の貿易を管理していたが、アレクシス家の台頭により勢力を失う
◇ 商人ギルドの権力を強くすることに反対しており、アレクシス家を目の敵にしている
▼ アレクシス家との関係:
◇ 「商人風情が貴族と同等の力を持つなど許されない」と考えている
◇ ギルドの影響力を抑え、貴族の支配を取り戻そうとしている
◇ 彼らの資金源は 「貴族領の租税」や「封建制の支配」 にあるため、商人の台頭が脅威
②《ヴォルテール伯爵家》——武力と私兵を操る実力派
▼ 背景:
◇ ロストン周辺の 傭兵団や軍事組織と深いつながり を持つ貴族
◇ 本来は港の防衛や交易の安全を保証する立場だったが、
◇ アレクシス家が独自に「自警団」を組織し始めたため、影響力が低下
▼ アレクシス家との関係:
◇ 「ロストンの治安維持は貴族の仕事」 という名目で、アレクシス家の自警団を敵視
◇ 貴族に仕えるはずの傭兵が「商人の資金で雇われる」ことに危機感を抱いている
◇ 「商人が力を持ちすぎると、いずれ貴族は不要になる」と警戒
③《カリスト侯爵家》——“影の取引”を行う貴族
▼ 背景:
◇ 裏の貿易(違法な奴隷取引や密輸)を牛耳る貴族
◇ 表向きは慈善家であり、修道院にも多額の寄付をしている
◇ しかし、彼らは「薬の密売」や「疫病の裏取引」など、闇市場を利用している
▼ アレクシス家との関係:
◇ アレクシス家が“クリーンな貿易” を推進することを嫌う
◇ オリカの治療が「病人を減らし、需要を奪う」 ことになるため、商売の邪魔
◇ 修道院とも結託し、「魔法以外の治療は危険」という偽情報を流す