第215話
陽が昇りきってしばらく、カリナはラ・フローラを後にした。
腹の底から満ちた滋味の余韻を抱えながら、彼女はマルヴァレッタの街を歩く。
舗道に斜めの陽光が差し、石畳の隙間で遊ぶ海風が漣を連れて通り抜けていく。
街の斜面を撫でるようにそよぐ風は、潮の匂いとパン焼き窯の香ばしさを交えて鼻腔をくすぐった。
遠くに聞こえるのは帆を張る音、船体を軋ませる縄のきしみ。街は港とともに呼吸していた。
通り沿いの店先では、色とりどりの布地が棚の上で風に舞っている。海染めの青、麦の金、熟れた果実の赤。
商人たちの声は言葉以上に表情を持ち、客引きの笑顔はこの街に根付いた温かさを映していた。
カリナは、左手の商業路を抜け、朝市の終わりを迎えつつある食材市場へと足を向ける。
彼女の持ち込んだ魔獣肉が使われるパン屋では、扉を開けるとすぐに、焼きたての甘い匂いが頬を撫でた。
「よう、カリナ!久しぶりじゃねぇか」
皺だらけの手を振るパン職人は、短く整えた白髪の向こうから照れたような笑みを見せる。
カリナは笑い返し、小ぶりなハーブパンを一つ手に取り、口に含んだ。噛むごとに広がる香草の風味に、魔獣肉の旨みが滲む。
「いい仕上がり。…ちょっと、焼きが深くなった?」
「気づいたかい。ちょいと粉を南方産のに変えてみたんだ」
パンと街の気配を抱えて、彼女は再び通りを歩く。
小さなカフェの軒先では、椅子に座った老夫婦が香草ティーを傍らに語らっていた。
路地裏の仕立て屋では、カリナの届けた鱗布が子供服の装飾に使われていた。
午後の海が、街の輪郭をやわらかく縁取っていた。
陽光は群青の水面を割り、銀色の細波となって岸辺に押し寄せる。波音はときに潮のリズムをまとい、心地よい呼吸のように通りを歩く人々の元へ届いていた。
石造りの街並みは明るい黄土色を基調に、軒ごとに咲き誇る花や風見鶏が彩りを添えていた。
窓枠には地中海風の紺青や翡翠色の木材が使われ、陽を受けて鈍く輝く。
市場通りへ向かえば、香辛料や干した魚介の匂いが潮風に溶け、街を歩くたびに違う香りが鼻をくすぐった。
軒先に吊るされた帆布の天幕が日差しを優しくさえぎり、白い石畳を斑に染めていた。
「新物の海苔巻き貝だよ!今日の朝、水上市場から届いたばっかり!」
「レモン胡椒、倍の香りで倍の辛さ! 高原地方の山から直送だよ!」
売り手の声は途切れることなく交差し、買い手たちは迷う素振りもなく、それぞれの舌と目で品を選んでいく。
市場の空気は濃く、生命力に満ちていた。
カリナの視線が止まったのは、通りの奥にある露店。
そこでは、見たことのない果実が天秤に並べられていた。
小さな橙色の実が風に転がり、甘い柑橘とわずかな苦味を含んだ香りを漂わせている。
「これ、何の実?」
尋ねれば、商人は手慣れた仕草で果実を一つ手渡してきた。
「“サリアの灯”ってね。夜になると、皮の表面がふわっと光るんだ。灯火が少ない船乗りの夜食用さ」
カリナは微笑み、小袋にいくつか詰めてもらうと、肩の荷物に収めた。
そう、ここは“食の交差点”——
異国から届いた調味料も、魔獣肉の珍味も、山の蜜も海の塩も、ひとつの路地で共存している。
彼女の足音に合わせて、街は表情を変えていく。
海辺の小さな広場に出ると、子どもたちが波打ち際を裸足で走っていた。
遠くに浮かぶ貨物船のシルエットは帆を張り、街の空と海を繋いでいた。
その帆は、カリナが走ってきた山々と森の向こうと、この海の街が、たしかに繋がっていることを物語っていた。
「相変わらず、いい街だなぁ……」
そう小さく呟いて、彼女は再び歩き出した。
目的地はまだ先だが、今はこの海風と光の中を、ゆっくりと進んでいく。
海風が潮の香りを運び、マルヴァレッタの空を吹き抜けていく。港の喧騒は午後を過ぎても衰えることはなく、商人たちの声、荷馬車の車輪、魚を売る女たちの呼び声が、陽光の下で跳ねるように響いていた。
カリナは肩の力を抜きつつ、革ベルトのかかったポーチを軽く叩く。中には、希少な香辛植物や干し肉が収まっていた。市場で買ったばかりの品々——依頼の合間、こうして異国の味を少しずつ持ち帰るのが、ささやかな楽しみでもあった。
だが、その足取りはふと、細い路地の角で止まった。
市場通りから一歩逸れたその路地は、陽の光が届きにくい。石造りの建物が密に並び、風も抜けぬその空間には、別の空気が流れていた。
ふと、鼻先をかすめる匂いに、カリナの獣人としての本能が反応した。
薬草ではない。肉でも、血でもない。
それは、長く閉ざされた空間に染みついたような、じっとりとした病の匂い。
「……黒死病」
彼女は声に出さなかった。ただ、目を細め、耳を澄ませた。
かすかに聞こえた、誰かのうめき声。路地裏の陰、その奥に折れた木箱。丸めた布の塊のようなものが地面に置かれている。それが“人”であることを、彼女は直感で理解していた。
呼吸は浅く、肌には黒い斑点が浮かんでいた。かつて故郷のユルデンでも見た——黒死病に冒された人間の徴候。
「ここにも、届いてるんだね……」
誰にともなく漏らした言葉が、乾いた石壁に吸われる。
潮風と陽光に包まれたこの港町の、その明るさのすぐ傍にこうした「影」が潜んでいる。
市場で食材を売る者たち、仕入れに来た料理人たち、海から品を運んでくる水夫たち。彼らの誰かが、すでに病を運んでいるかもしれない。
——否、それはもう“運んだ”のかもしれない。
カリナは深く息を吸い、風に乗る匂いを探った。だが、匂いは不規則に乱れ、すでに“線”として追うには遅すぎた。
それでも彼女は、その場をただ通り過ぎることはしなかった。
手にしていた革袋から、干した薬草と保存水の小瓶を取り出す。布の塊に近づき、そっと膝をついた。
「ちょっと、失礼するよ」
病人は応えなかった。ただ、微かに瞼が動いた。
——獣人である自分が、こうして触れることに偏見を持つ者もいる。
だが、それでも。
カリナは、そっと薬草の一部を細かく裂き、水に浸して布に包んだ。それを患者の額に乗せる。気休めかもしれないが、それができる“間合い”にいたことが、彼女にとっては意味のあることだった。
そして何よりも、この“匂い”と“気配”を忘れないために。
「……帰ったら、ファリスにも伝えないとね。どこに行っても、黒死病の影が伸びてきてるって」




