第214話
南の空は、どこまでも透き通っていた。
雲は細く、陽射しは優しく。だが、そこに揺れる潮の匂いは、この地に根づいた“営み”の濃さを確かに伝えていた。
——マルヴァレッタ。
ラント南岸に広がるこの港湾都市は、かつて海の民が築いたとされる、歴史ある赤煉瓦の市壁を抱いていた。ロストンに次ぐ交易の要衝として、陸と海とが交差する玄関口。港に並ぶ帆船は大小さまざま、魔導蒸気を吹かせる新型の貨物船が、古い木造船と肩を並べている。
カリナは「グレイ・ホイール」の手綱を軽く引き、ゆるやかに坂道を下っていった。
都市へと至る道の両脇には、商家や工房、物資を積んだ荷車がひしめき合う。魚の干し網が風に揺れ、香草や異国の香辛料の匂いが鼻腔をくすぐった。どこか湿気を含んだ海風が肌を撫でるたび、ユルデンの乾いた山風とは違う感覚が胸をくすぐる。
「……ほんと、賑やかだなぁ」
誰にともなく呟いた声が、街のざわめきに溶けていった。
通りには異国の服をまとう旅人、肌の色も髪の色も様々な人々が行き交い、多彩な言語が重なり合う。交易の町としての“混ざり合い”が、街全体に生きた多様性を与えていた。
眼下には、陽光を照り返す白い波。桟橋には貿易商や積み荷の職人たちが忙しなく動き、空には水晶航路を通る飛空獣便の翼が交差していく。
「ここまで来たの、久しぶりだな……」
そう呟いたカリナの表情には、懐かしさと期待が混じっていた。
彼女はこの街の気配が嫌いではなかった。海と市場と、そして旅の起点となるこの街は、過去に何度か訪れた記憶と、まだ見ぬ“美味”への探求心をかき立てる。
港の先には、“紅銅の塔”と呼ばれる灯台が、空を見上げている。
それは、遠方からやってくる船乗りたちの道標であり、この街に生きる者たちの誇りでもある。
「さて……と。あそこに寄ってから市場だね」
陽射しを受けて輝く港の石畳に、グレイ・ホイールの車輪が静かに軋んだ。
旅の続きを告げる音が、マルヴァレッタの風に溶けていった。
赤煉瓦の舗道を抜け、カリナは港から内陸にわずかに入った商業区の一角へと足を運ぶ。
──潮風はまだ香りを連れていた。海から吹き寄せる風は、潮と香辛料、焼けた魚の匂いを混ぜ、街角ごとに異なる表情を見せる。
海鳥の鳴き声が空に響き、魚市場の路地では氷のかけらと共に声が飛び交っている。
カリナはその喧噪を通り過ぎ、少し奥まった商業区のなかでも、やや格式高い店が並ぶエリアへと足を向けていた。
彼女が立ち止まったのは、小ぢんまりとした料理店の前。入り口には、黒い塗りの木看板が揺れていた。
《La Flora》
深緑色の木枠に、金文字で控えめに描かれた看板。窓辺には季節の花々が並び、店の名に恥じぬ風格を漂わせていた。
中に入ると、すでに魔導保存箱から取り出された荷が、厨房の奥へと運ばれていくのが見えた。
「カリナさん、お待ちしておりました!」
呼び止めたのは、背筋を伸ばした若い女性——ラーナ・ベルネッティ。
この店の料理長であるアルド・ベルネッティの娘であり、見習いとして修行を積む彼女は、受け取りの段取りをすでに終えていたようだった。
「青焔獣の心核、状態はとても良好でした。さすがです」
「よかった。崖下で霧が深くてさ……でも、頼もしいハンターと一緒だったから、何とか持って帰れたよ」
カリナが照れたように笑うと、ラーナもほっとしたように微笑み返す。
「これ、今回は“熟成醤油の魔導還元ソース”に加工するんです。高温で長時間の抽出が必要ですけど、火の加減と魔力調整で、青焔獣ならではのコクを引き出せるはず。まだ父には触らせてもらえないけど、側で見られるだけで幸せです」
ラーナの目には熱がこもっていた。料理人としての矜持、そして素材に対する真摯な思い。カリナはそのまっすぐな情熱に、思わず頷いていた。
「せっかくだから、何か食べていかれますか?」
「うん、じゃあそこの“名物”ってやつ、食べてみたい」
すぐに席へと案内され、木製の小さなテーブルに腰を下ろしたカリナの前に、ほどなくして一皿の料理が運ばれてくる。
《レイヴェル海魚と温泉根菜の魔導蒸し》
銀皿の上に美しく盛られた海魚は、皮目にわずかに焦げ目が入り、香ばしい香りを放っていた。隣にはユルデンの温泉地帯で育った根菜が添えられ、魔導蒸気でしっとりと蒸し上げられている。
口に運べば、潮と根の香りが一度に広がった。海と山の“呼吸”が一つの皿に重なるように、対照的な素材が見事に調和していた。
「……すごい。……でもこれ、どっちの味でもない」
「ふふ、それが“マルヴァレッタの味”です。外のものと、ここでしか取れないものを“縫い合わせる”。それが、父の料理の真髄なんです」
ラーナの誇らしげな言葉に、カリナはゆっくりと頷いた。
言葉にすることも惜しいほど、滋味に富んだ一皿だった。カリナは黙って咀嚼しながら、確かに感じていた。
——これが、港町の“味”だ。
ユルデンの岩肌、ロストンの都市、そしてこのマルヴァレッタ。それぞれの地がもたらす“風土”が、食を通して肌の内側に染みていく。
ふと、彼女の視線が厨房の奥へと動いた。そこには、複数の食材と仕入れ伝票が並び、ラーナが何やら目を通していた。
「ねぇ、ラーナ。……そのテーブルの上にある“砂霧鰭魚”、それって、港の北の入り江にいるやつ?」
「ああ、そうそう。今が旬な魚なんですけど、中々仕入れづらくて…」
「ふーん。北の入江には近々寄って行こうと思ってるんだけど、もしよかったら獲ってこようか?」
「ええ!?本当ですか??」
「もちろん特価で大丈夫だよ。こっちから言ってることだしね」
「それは父が喜びます…!でも、本当にいいんですか?」
カリナは一口の余韻を残したまま、静かに笑った。
「……あの入江には他の目的で行くんだ。そのついでだから、全然大丈夫」
皿の上に残る、淡く青い燐光を放つ心核肉の断面を見つめながら、彼女はまた一つ、新しい味と土地への“線”を結び始めていた。




