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第213話




霧が薄れ、静けさが戻った森に、再び小さな音が響きはじめる。


それは、刃が肉を裂く音だった。

しかし無粋な音ではなかった。鋭さの中に、整ったリズムがある。


「心核……こいつのなら、背椎のすぐ下、横隔膜の奥だよ」


カリナは、獣の体の腹側に回り込み、素早く装備を整える。

背中から取り出したのは、狩人専用の解体用具。刃先の異なる数本のナイフ、魔印処理済みの封印布、心核収納用の“鮮護容器”——それらを手際よく並べていく。


「……行くよ」


エイダにひと言だけ告げ、カリナは解体を始めた。


まずは喉元から胸部へと、皮膜を裂く。刃の軌道はまっすぐ、迷いがない。

魔導器官と筋膜の位置を正確に読み、最も“鮮度を保てる切開ルート”を選んでいた。


「……温度、まだ保ってる」


そう言いながら、青焔獣の体内に手を差し入れ、血管の中に残る熱を感じ取る。


「風封の刻印、発動」


ナイフの柄に刻まれた符が淡く光り、切開部分から漏れる熱と魔素を抑える結界が展開される。

それにより、心核への熱の流入と腐敗の進行を防ぐ——精密な処理だ。


「こいつの心核は、発熱器官とつながってるからね。下手すると、魔素暴走して壊れちゃう」


内蔵の奥へと刃を進めるカリナの目は、まるで医者のそれだった。

いや——外科医と料理人の中間。命を奪い、命を活かす、その間に立つ者の目。


「——あった」


低くそう呟くと、カリナは掌ほどの球状の結晶を取り出した。

青白く脈動するそれは、まだ“燃えていた”。微細な光の粒が内側を漂い、魔力の余熱がわずかに指先に伝わる。


「……青焔獣の心核。依頼品、回収完了」


即座に“鮮護容器”の蓋を開け、心核を滑り込ませる。

内部の結界が作動し、心核を無風・無熱・無振動の安定空間に封じ込める。


「さて……次は、食べれるところ」


立ち上がったカリナの顔には、どこか微笑すら浮かんでいた。


「目的は心核だけじゃなかったのか?」


「そうだけど、エイダもハンターなら知ってるでしょ?たとえ相手が魔獣でも、狩りとして命をいただくなら、“余さず使う”のが礼儀だって」


背鰭の下の肉は燻製に向く。内臓は適切に処理すれば、高級珍味に。肩肉はフェリス精肉店への手土産。鱗は鞣して革具に使える。


彼女の手が動くたびに、獣の体は適切な「食材」や「素材」として切り分けられていく。

けれど、そこには一片の残酷さもなかった。


「……ありがとね」


最後に、静かにそう呟いたカリナは、獣の額に触れた。


エイダは少しだけ目を伏せ、それを見守っていた。


こうして、獣の命は街の市場へと繋がっていく。

彼女たちの仕事とは、単なる“狩り”ではなく、流通の起点であり、命の循環を繋ぐ技術でもある。


森に微かに風が吹き、空に光が差し始めた。



日が午後に近づきかけている朝の日差し。


渓谷の霧が晴れ、ユルデンの空が淡い青灰に染まり始めたころ——


「戻るよ、グレイ」


カリナが口笛をひと吹き。

森の奥から、厚い霧を裂いて一台の荷車が姿を現す。

それは彼女の相棒、“グレイ・ホイール”。足元の岩を難なく越え、静かに彼女たちの前で止まった。


「後ろ、上げてくれる?」


「……ああ」


エイダは短く頷き、車輪の横にあるレバーを下ろす。

魔導式の自動昇降台が音もなく展開され、荷台が滑るように降りてくる。

すでに仕分けされた青焔獣の素材が、封印符と保全木箱に収められ、冷却・燻蒸・密封の三温帯に分けて収容されていく。


「これで全部……よし、積んだ!」


カリナが両手を腰に当てると、グレイ・ホイールの魔導核がふっと脈動した。

荷台が再び持ち上がり、安定結界が展開される。


二人は渓谷沿いの古道を通り、ユルデンの外縁へと帰還する。

断崖に沿って張り出した吊り橋の上を、荷車は音もなく滑るように走る。


谷底からは湯煙が立ちのぼり、遠くから鉱石を砕く音、魔導鍛冶の槌の音が微かに聞こえた。


市場区の奥、配送ギルドの中庭には、陽が差し込み始めていた。

霧が薄れていく時間帯——それは、ユルデンにとって最も「街の色」が露わになる瞬間でもある。


霧が退く。

その下から現れるのは、石畳に刻まれた無数の轍と足跡、

露店の天幕に積もっていた夜露の痕跡、

そして、朝露に濡れた野菜の艶や、薬草の芳香。


街が、目を覚ます。


「——さて、と」


カリナは再び腰に手を当て、視線を広げる。


ユルデンは“狩りの街”であると同時に、“動く街”だ。

狩る者がいれば、運ぶ者がいる。

鍛える者がいれば、測る者がいる。

焼く者がいれば、売る者がいる。


カリナのような“調達屋”は、その中心を結ぶ「動脈」だった。


——そして、ユルデンの“市場区”へ。



朝市の賑わいと共に、峡谷都市の活気が広がっていた。


「よっ、カリナ!朝から精が出るな!」


市場の入り口、魚介の屋台の主、ノルトが声を張る。

カリナは軽く手を振りながら、荷車の速度を落とす。


「お互い様でしょ?あとでちょっと寄ってくよ」


笑い声が飛び交う中、荷車は「風の道」のユルデン支部へと滑り込んだ。





「心核は? 例の依頼主に?」


「封印符付きで保管済み。ギルド経由で送るよ」


支部長代理の〈マール・ジェリオ〉は、帳簿を手にして待っていた。

癖の強い癖毛に小柄な身体。だがその目は老練な職人のように、すべてを見逃さない。


「ふむ、青焔獣。心核付きで……今回はグレードSか。さすがカリナ」


「市場用もちゃんと分けてあるよ。肩肉、内臓、鱗はミレスの商人に回して。心核は依頼主に送る分。文書付きで」


「了解。あとで契約書、エイダさんにもサインしてもらってね」


支部員が荷台から木箱を下ろし、識別符と送信札を貼り付けていく。



朝の陽射しが、少しずつ傾き始めていた。


——街を覆うほどに高く切り立つ、峡谷の中心へ。


ギルドの集荷所では、カリナが持ち帰った青焔獣の素材が一つひとつ丁寧に梱包されていた。心核は特製の封印箱に収められ、他の部位は冷気を帯びた魔導符で鮮度を保たれている。周囲には彼女の腕を信頼する職員たちが、慎重に、しかし手際よく動いていた。


その様子を少し離れた位置から眺めていたカリナは、ふと視線を横に向ける。


「——ねえ、エイダ」


名を呼ぶと、隣で無言で立っていたエイダがわずかに顔を向けた。


「今度の依頼品、マルヴァレッタに届けるんだ。心核の依頼主がどうしてもって言うからさ?配送手配が完了した後、挨拶がてらちょっと街に寄ってみようと思ってる」


「……港町か」


エイダの声は低く変わらぬ調子だったが、微かに海風の香りを思い出しているような間があった。


「うん。ついでに、あっち方面で少し珍しい食材も探すつもり。温泉棘魚とか、霧茸とか……ここらへんじゃじゃなかなか手に入らないからさ」


「ユルデンを、しばらく離れるんだな」


「そうなるかな。しばらくは留守になるよ。ちゃんと戻ってくるけどね」


カリナは笑った。けれどその目は、遠くの道を見ていた。


彼女の中ではもう、ルートは描かれていた。港までの行程、中継所、補給地点。頭の中で荷車の車輪が静かに回り始めている。


エイダは黙ってその横顔を見ていた。無鉄砲で、まっすぐで、けれど揺るがぬ意志を持つ彼女の背中は「風」のようだった。


「……道中、気をつけろよ」


「そっちも。あんまり無茶しないでよね。帰ってきたらまた、ご飯でも行こう」


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