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第212話




霧の揺らぎを裂きながら、カリナは疾駆する。

地面の感触、空気の渦、木々の間隔。それらすべてが、獣人の足取りに連動していた。


彼女の矢は殺すためのものではなかった。

それは“道を描く”ための線。光の導火線のように、森の奥から焔を誘い出すための軌跡。


青焔獣は、それに応じていた。

吠えるでもなく、唸るでもなく。焔を纏い、低く、速く、滑るように木立を駆ける。


(……ついてくる)


魔力で軌道を撹乱しながら、木々の間に潜みつつ。

だが、それこそが“読める”ということ。カリナは〈感覚〉のすべてを使って、獣を誘った。



そして、ついに——


「今だ——!」


霧が割れた。その先に、エイダが立っていた。


風除けの外套が、焔に照らされて波打つ。

両手に構えた双斧が、しなるように交差する。


獣が出た。

まるで、霧そのものから生まれ出たような速度で。


——バシュ。


その動きに、エイダは応じた。


刃が、地を裂いた。


青焔獣の前脚が、斧の弧をかすめた。


(浅い——いや、狙い通りか)


それは、初撃ではなかった。


霧の“形”を読む。

獣の動きは、霧と地面に“波紋”として残る。

それを読み取れるのは、彼女が斧を“振るう者”であるがゆえ。


一歩踏み込み、風を裂く。

その軌道は大気に“裂け”を生み出し、音ではなく——空間の返りとして森に響いた。


エイダの本命は、初撃の「次」だった。踏み込みの、次の一歩。


「っは!」


獣が身を翻すよりも早く、エイダは斧を返す。

反動を利用し、軸足を滑らせながら、逆斬りを放つ。


斧の刃が、獣の胴を斜めに裂いた。


焔が弾け、獣が叫ぶ。


だが、青焔獣も黙ってはいなかった。


反射的に前脚を振るう。

マナを帯びた牙のような脚が、下半身を軸にしたエイダの連撃を阻もうとする。


「くっ……!」


回避は——間に合わない。


しかし、その瞬間。


「——カバー!」


矢が、走った。


霧の上から、鋭く、重く。


カリナの矢が、脚の先端を撃ち抜く。


獣が動揺した。

その隙に、エイダが身体を滑らせ、地に膝をついたまま反撃の体勢を取る。


研ぎ澄まされた“呼吸”の応酬。

生きるための、そして繋ぐための、一歩一歩。



焔が踊った。


斧と爪が、空間の一点で火花を散らす。

攻撃と防御。その交錯が加速していく中、空気そのものが弾けていくような音が、森に響いた。


青焔獣の爪は、肉を裂くためだけではなく、斧の軌道を逸らすための動きも織り交ぜられていた。

だが、エイダの双斧もまた、それを予期したかのように“反発”の角度を取っていた。


二つの力がぶつかり、煙のような霧が一気に捲れる。


互いの距離、——そして、交錯する斬撃。



敵は足を踏み替え、体をひねり、前脚の踏み込みを利用して一気に後退した。


“次の一手のための溜め”。


走る速度に緩急をつけ、焔を撒き散らしながら、攻撃の出どころを“撹乱”しようとしていた。


青焔獣の“狙い”は、瞬間の火力ではない。

空間を操り、“攻撃そのものを霧散させる動き“。


エイダは斧を下げず、呼吸を整える。

濃密な霧の縁で膝を着いた姿勢のまま、風を読む。


(……どう来る)


立ち上がる。


斧を背に返し、両腕を広げるように構える。


エイダの姿勢は、獣の突進を受け止めるための「楔」となる。

その体幹に宿るのは、獣と正面から交わる覚悟。


「どこからでも来いよ」


わずかに斧が傾く。

風を断ち切るように。



——風が、止んだ。


ほんの数秒前まで、霧と焔が渦を巻いていた森の空気が、突如として凪いだ。


空間が張り詰める。

膨張する静寂の中、音すら質量を持つようだった。


カリナは木の枝を伝いつつ、空中を飛ぶように移動する。


すぐさま次の矢を指に挟んでいた。

それはまだ弓に番えていない。ただ、微細な振動を探るように、右手の中でわずかに転がしている。


(今じゃない……でも、すぐ来る)


弓を引かずとも、風を読む。

葉の揺れ、焔の匂い、獣の足音。森という“場”そのものを、カリナは身体で測っていた。


(エイダが一歩踏み込める、その一瞬だけでいい)


それは、目に見えない「間」を生む技術だった。


青焔獣は、焔の尾をしならせながら、低い姿勢で旋回する。

その目に、明確な“戦術”はない。ただ、本能に従い、強さと気配を嗅ぎ分け、最適な間合いを維持していた。


対するエイダは、斧の柄を再び持ち直し、低く重心を構える。

カリナと自分の距離。そのわずかな幅が、命運を分ける。



——ズッ


カリナの指が、静かに矢を弓に番える。


霧が一筋、揺れる。


(いまだ——)


彼女は弦を引き絞った。けれど、それは決して“真っすぐ”ではなかった。


矢はわずかに軌道をずらし、焔の周囲をなぞるように滑ってゆく。


「——抜いた」


エイダの瞳が微かに見開かれた。



——


矢は、音もなく空を裂いた。

だが、それはただの“射撃”ではない。


矢の先端には、魔術師工房《ミレス工匠房》が調整した拘束符封付きの重奏鏃じゅうそうがく

それは直撃と同時に、標的の周囲の“重力の密度”を微かに乱すという仕掛けを持っていた。


——



「抜いた」


エイダの瞳が、わずかに見開かれる。


視えたのだ。

矢が霧の中を滑走し、その先、焔の“ぶれ”が一瞬、空気の像として浮かび上がった。


そこだ。


矢が突き刺さる。


——ピシィンッ。


風でも焔でもない、鈍く空気の弾けるような破裂音が響いた。


直撃ではない。だが、それでよかった。

特殊矢の狙いは、“殺す”でも“撃ち抜く”でもない。


それは、獣の周囲にある空気の流れを“ずらす”ことだった。

踏み込みの力、跳躍の軌道、焔の尾の揺らぎ。

その一つひとつが、矢の干渉によって微かに“誤作動”する。


青焔獣の動きに、わずかなノイズが混ざった。


踏み込みが浅くなる。

焔が撥ね、姿勢のバランスが崩れる。


その一瞬の歪みが、エイダの“踏み込み”を可能にする。



踏み込める。



エイダはそれを、全身で理解していた。


「行く!」


斧を構えたまま、地を蹴る。


前傾姿勢のまま滑り込むような一歩。


両足を踏み込み、地を滑らせながら間合いを詰める。

“双斧”が、同時に振るわれるための最短距離が、そこに完成した。


距離が、交差する。


——風切りの音。焔の呻き。獣の尾が浮く。


「おらぁっ!」


エイダの斧が唸りを上げた。


空気が弾ける。

霧を裂き、焔を裂き、音すら斬り伏せるような、重くて速い一閃。


青焔獣の肩が、斜めに割れた。肉と鱗が引き裂かれ、蒼い焔が血煙のように舞う。


吠え声はない。獣はただ、反射的に跳ねた。



森に、静寂が戻っていた。


刃が閃いたその一瞬の後、すべては音を失ったようだった。

霧はまだ地表に漂っていたが、青く淡い燐光は、もうどこにも揺れていない。


斧を振り抜いた体勢のまま、エイダは肩で息をしていた。

腹の底から呼吸を絞り出すような、熱く、重い息。

喉の奥には鉄の匂い。斧の刃には、蒼く燃える魔血の飛沫がまだ生温かく残っていた。


その足元に、青焔獣は倒れていた。


巨躯が横たわり、背中の魔導器官はかすかに脈動を続けていたが、もはや光ることはなかった。

尾は力なく地面に垂れ、牙も、もう空を噛むことはない。


「……終わったのか」


エイダの声は、誰に向けたものでもなかった。

けれど、それは確かな確認だった。


「ん。もう、大丈夫」


木の陰から、カリナが姿を現す。

弓を肩に戻し、ひとつ息を吐きながら、青焔獣へと近づいていく。


その顔には安堵よりも、観察者のような静かな眼差しがあった。


「動き、最後まで見えてた?」


エイダの問いに、カリナは小さく頷いた。


「……うん。あいつ、尾を軸にしようとした時、焔の流れが逆になった。あれが合図だった」


「よく見てたな」


「見たんじゃない。風が教えてくれたんだよ」


カリナはしゃがみこみ、青焔獣の傷口をそっとなぞる。

戦利品として切り出すべき部位を、指先と嗅覚で探っていた。


「……ロッツォがさ、言ってたんだ」


「“気配を読むってのは、風を読むことだ”って。見えないけど、確かにあるものを、五感で確かめるんだって」


そう呟く彼女の言葉は、まるでこの獣の焔そのものを追体験しているようだった。


「獣も、自然も、私らと一緒で、変わっていく。でも、それでも流れはある。……だから、見極めないとね」


森に沈む焔の匂いは、どこか甘く、苦い。


カリナはその中に、一筋の未来の輪郭を嗅ぎ取っていた。

この森も、ユルデンも、いつか変わっていく。ハイウェイ・ロード計画、都市開発、交易の変容。

変わらないものなどない。だが、だからこそ——その変化の「流れ」を見極め、生き抜く。


「なあ、カリナ」


エイダが、低く呼びかけた。


「……お前、以前にも増して頼もしくなったな」


「そうかな?」


カリナは軽く笑った。

だがその笑みにも、どこか硬さと、静かな覚悟が滲んでいた。


森の奥、霧は少しずつ晴れ始めていた。


焔は沈み、戦いは終わった。

だが、街も、森も、彼女たちの生きる道も、降り注ぐ淑やかな朝の陽光のように、これからの長い旅路と“未来”に続いていくのだ。



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