第211話
音が、消えた。
風が、止んだ。
それは青焔獣が姿を消したからではなかった。
獣の“意思”が、森全体に及んだのだ。
「……この気配、変わった」
エイダが、静かに言う。
双斧を構え直した手元に、微細な震えが走る。
それは恐怖ではない。“気付き”による戦慄だった。
「霧の密度が……おかしい。広がってる」
カリナは獣人としての嗅覚で、霧の奥に潜む異質を感じ取っていた。
いつもの湿気ではない。そこに“熱“と、わずかな焦げ臭が混じる。
「——あれは、“意図された霧”だ」
突如、焔が走る。
いや、霧の中に“焔が流れた”。
それは一本の炎ではなかった。
幾筋もの燐光が絡み合い、網のように張り巡らされていく。
「まずい、このままだと——!」
カリナが矢を番えた瞬間、地面が脈打った。
青焔獣の足音——いや、“脈動”だった。
地と霧と焔が呼応し、獣の存在が“森そのもの”と化していく。
焔の流れがまるで”獣の神経網“のように広がり、霧がその皮膚となり、周囲の景色が変質していく。
「……広域型の“結界”、か?」
エイダが呟く。
だが、それは人の魔法のような整然としたものではない。
あくまで本能と環境への適応によって形成された、野生の魔術圏だった。
「このままじゃ……“外”が見えなくなる」
カリナの声には焦燥が滲んだ。
彼女の戦いは“間合い”で成り立つ。
だが、視界も風も奪われれば、その射程は極端に制限されてしまう。
「エイダ……私が“起点”になる」
「馬鹿な、今の霧の中に入れば戻れないぞ」
「だから、あえて行く。あの獣……“音”で位置を測ってる。だったら、こっちが動いて、霧を破るしかない」
カリナの目が、森の焔を見据えた。
「この霧は……ユルデンの未来みたいだ」
「……は?」
「輪郭が曖昧で、何に変わるのかもわからない。でも……だからこそ、見極めなきゃ。私は、“目”で、獣も世界も、——撃ち抜きたい」
風が、少しだけ戻った。
それは、獣人が“決意”をした瞬間にだけ吹く、彼女自身の風だった。
「待ってて、エイダ」
カリナが霧へと飛び込む。
一歩ごとに「風」が乱れ、焔が躍る。
その輪郭を、彼女は目で、鼻で、耳で——“全身”で捉えていく。
まるで、見えない未来を手繰り寄せるかのように。
——ブワッ
霧は視界を奪う。
だが、それだけではない。音を歪ませ、匂いを拡散し、獣人の本能すら惑わせる。
カリナは弓を携え、森の懐へと踏み込んだ。
草の匂いと、焦げた土の臭気。獣の放つ魔力と森が抱える静寂が、層をなして押し寄せる。
「この感じ……“息”が変わってる」
霧は均質ではない。
時折風の裂け目のように、“揺らぎ”が生じる。その瞬間、カリナは足を止め、耳を澄ました。
——シュウ……パシィィッ。
微かな、マナの擦過音。
青焔獣が霧を介して、空気そのものに作用している。焔を纏った神経が、森全体に張り巡らされているようだった。
(……どこだ、どこにいる)
目は意味を失い、音は信頼できない。
それでも、彼女の“鼻”は、生まれつきの道標だった。
「……東から、風が戻ってきてる」
青焔獣は、風下に回っていた。
つまり今のこの霧は、“あいつが作った視界”だ。
自らの動きを隠しつつ、こちらの動向を読み取るための——“知能”ではなく、“本能”が編み出した狩猟術。
——ドンッ。
斧が打ち鳴らされた地点から、地鳴りがこだまする。
それは、ただの威嚇ではなかった。
合図。
霧の内側にいる仲間へ向けての、“狩人の呼吸”だった。
エイダは霧の外、わずかに風の通る場所に立っていた。
片膝を折り、手にするのは——斧。
ただの斬撃用の構えではない。
彼女にとってそれは、“空間を裂く”術の延長だった。
霧は深く、湿り、燃えている。
だがその中に、獣の気配がある。
意識ではなく、感触の領域で、それは“在る”と分かる。
「……隠れても無駄だ」
呟くように言いながら、エイダは斧を構えた。
腰を落とし、片腕を大きく振りかぶる。
その姿はまるで、
空間そのものに“斬り口”を入れようとする鍛冶職人のようだった。
「狙うのは、音の返り。風の“突き”……」
——ゴゥンッ。
一閃。
斧が空を裂く。
鋭く、広く、空間を斬る音が放たれた。
空気が揺れ、森が一瞬静まり返る。
それは、ただの衝撃ではない。
斧の軌道に沿って生まれる、“真空の爪痕”のようなものだった。
霧の膜が裂けた。
遠く、霧の中で——ほんの一瞬だけ、空気の形が変わった。
その部分だけ、色が違った。
明度が低く、焔が蠢いていた。
そこに、いる。
獣の皮膚が、空気の反射を乱す。
目視はできずとも、気配が立ち上がった。
カリナはその“裂け目”を感じ取る。
斬撃の余波が、まるで導線のように獣の位置を“示した”。
「……ありがと、エイダ」
風が、通る。
その一閃が作った“空間の亀裂”が、青焔獣の存在を際立たせる。
「……今」
矢羽根を、静かに引く。
風が指先をなぞり、霧の中に“温度の違い”を知らせた。
音も、光もない。だが——そこに“動き”がある。
右前脚。わずかな重み。
霧に揺れる焔が、一瞬だけ輪郭を失った。
その瞬間、カリナは矢を放った。
——ヒュウ。
音すら生まぬ矢が、霧を切り裂く。
焔の動きが乱れ、獣が低く唸った。
命中した。だが、それは致命ではない。
カリナは矢をもう一本抜きながら、視線を流す。
そして気づいた。霧の濃度が、一段と変化している。
(……これは、第二段階の“適応”だ)
青焔獣は、さらに“広域化”しようとしている。
自身の傷を“森ごと”覆い隠し、なおも捕食者であろうとする——その“強さ”に、カリナの心が静かに震えた。
(なら、こっちも——あんたのルールでやってやる)
そのとき、霧の向こうから聞こえた。
「カリナ、こっちに誘導できるか!」
エイダの声。
短く、強く、確かな“信”が込められていた。
「了解——!」
霧の中を、カリナが走る。
矢を放ち、獣の注意を引き、焔の線を撹乱しながら、
“斧の届く距離”へと獣を誘い出す。




