第210話
「当たったか!?」
エイダが呟いた、その刹那だった。
まるで森全体が震えたかのように、湿気を帯びた空気が渦を巻いた。
「違う、あれは——」
カリナが言い終えるより早く、焔が咆哮のように爆ぜた。
青焔獣の姿が、森の一角から浮かび上がる。
燐光の発熱器官がひときわ強く輝き、蒼い炎が空気の壁を裂いた。
その姿は、まるで焔そのものが形を持ったかのようだった。
「焔で視界を撹乱してる……!」
エイダが斧を構え、霧を裂いて踏み出す。
その一歩は、獣の軌道を計算した上での“迎撃”だった。
「来るぞ、カリナ——!」
青焔獣の尾が、閃きのように走った。
鞭のようにしなる尾先から、微細なマナの火花が散る。
それを“風”で読む。
それを“音”で知る。
カリナは、矢筒からすでに次の一本を抜いていた。
「左、回る!」
エイダが先に動く。斧の重みを殺すように低く構え、回り込む動きで獣の死角へ滑り込む。
それに合わせるように、カリナの矢がもう一度、音なく放たれる。
青焔獣は吠えるでもなく、ただ焔を纏ったまま、蠢くように身を翻した。
——だが、重い。
——そして、速い。
その身体の質量と瞬発力は、ただの魔獣ではない。
森という環境を味方につけ、霧を焔で操ることで、まるで森全体がこの獣の一部となっていた。
「エイダ、前!」
カリナの声に応じ、エイダは霧の中から弧を描くように飛び出す。
双斧〈グリムアッシュ〉が、焔の中に銀色の斬光を走らせる。
斬撃と焔が交錯する音。
湿った草を焦がす匂い。
空気が震えるような魔力の波動。
「——浅い!」
斧が獣の胴をかすめた瞬間、エイダは手応えのなさに顔を歪めた。
刃は確かに当たっていた。
だが、削れたのは表皮の一部だけ。
青焔獣の身体を覆う焔の鎧が、打撃を“弾く”のではなく、“鈍らせている”とでもいうような感触だった。
カリナの矢も、数本が獣の体に刺さっていた。
風纏いの加護があっても、致命点に届くには至らない。
「動きが——読めない……!」
カリナの視線が、森の奥と獣の輪郭を交互に走る。
青焔獣は、目立つ巨体にもかかわらず、攻撃の起点を掴ませない。
その機動の大半が、地形との融合によって隠されていた。
霧が流れ、木々が揺れるたびに、焔の閃光がちらつく。
だが、それは錯覚か、囮か、本物か——判断を鈍らせるには十分だった。
「こっち来るぞ!」
エイダが反応する。
跳ねるように身を沈め、青焔獣の踏み込みに備えた。
その前脚が地を蹴る瞬間、焔がまるで逆流するように背中を駆け上がる。
一撃——!
エイダが斧で防ぐ。だが、強靭な脚力から生まれる一撃は防ぎきれず、肘を軋ませながらも後方へ飛ばされる。
「エイダ!」
その隙を補うように、カリナが矢を放つ。
連射。左右に走る風の矢が、斜めに交差しながら獣の右肩を狙う。
だが、焔の螺旋がそれを狂わせた。
空間ごと歪めるような熱の揺らぎが、軌道を微かに逸らす。
一本はかすり、一本は枝に吸い込まれていった。
「まずい……このままじゃ、持たない」
森の地面が、じわじわと炭化していく。
足場も次第に、滑るような灰の層へと変わっていた。
「切り替える……前に回る!」
カリナが動く。
正面へ踏み込むその動きは、狙いを定めるのではなく、あえて“囮”となるよう計算されたものだった。
「カリナ!」
「いいから、任せて——」
視線は獣の喉元。
だが、真の狙いはその奥。
矢を引く。
風纏いではない、別の魔力がその矢に流れ込む。
「……一瞬だけでも、気を引ければ……!」
次の一手へと、布石が打たれた。
そのとき、再び焔が爆ぜる。
——空気が、揺れた。