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第209話



「——消えた?」


負傷した腕を押さえながら、エイダが低く呟いた。


カリナは答えず、代わりに弓を引いたまま静かに姿勢を崩す。木の幹に背を預け、呼吸を最小限に。


青焔獣の焔が、森の奥で木霊している。

湿った霧の向こうに一瞬だけちらつき、すぐにまた消える。


だが、気配は消えない。


消えたのは、ただ姿だけ。

獣の存在そのものは、

空気を震わせるような圧力となって、依然、二人を包み込んでいた。


どこかにいる。

必ずこちらを狙っている。


それだけは、確かだった。


——小さな木の葉が、一枚、空中を舞った。


空気は、張り詰めている。


カリナとエイダは息を潜めながら、次に来るであろう敵の一撃を、それぞれの方法で迎え撃つため、身構えた。


「……敵の気配が、霧に入ってる。発熱器官を抑えてるかも」


カリナが目だけで合図を送る。


焔の獣。獣の焔。


それは、ただの熱ではなかった。

この森の湿気に絡みつき、気流に乗って“気配”すらも欺いてくる。


「追うか?」


エイダの問いに、カリナは静かに頷いた。


けれどその足取りは、焦りを孕まない。むしろ、深い地の声に耳を澄ませるように、ひとつひとつが静かで正確だった。


——この感覚は、狩りに似ていない。もっと、何かに近い。


「……空気の流れが変わったな」


エイダの言葉に、カリナは一瞬だけ肩を揺らした。


「うん。…変な感じ」


獣人族として生まれ、山を駆け、風を読むことに慣れてきた身体。


けれど、その「馴染みの感覚」が、今、森とずれていた。


「……風が回ってない。気圧が逆流してるのかも」


カリナの鼻先がわずかにひくつく。

鼻腔に満ちる匂い。腐葉土の匂い、青焔獣の焔で焼けた臭気、それに交じる違和感。


静寂が、森に滲んでいた。


樹々は身じろぎもせず、霧は枝に絡みついたまま流れない。

葉の裏に宿る夜露が、まるで凍りついたようにその重さを保ったままだ。


カリナは一歩、足を前に出す。

だが、靴底が踏んだのは苔ではなく、どこか温もりを含んだ土だった。


青焔獣の通り道だ。熱が残っている。

けれど、その熱は、もはや炎ではなかった。

何か——「記憶」のようなものを含んだ、しつこく纏わりつく余熱だった。


「見えないけど、いるよ……」


カリナが低く呟く。

風が、囁くように森をかすめた。


揺れる葉の音さえ、妙に遠く感じる。

森そのものが、何かを隠そうとしているようだった。


木の幹に手を添えると、わずかに振動が伝わる。

遠くで獣が木肌をかすめたのか、それとも——森が呼吸しているのか。


「足音、しない。…けど音が、抜けてる」


エイダがぽつりと言った。


確かに、音が反響しない。


枝葉のきしみも、鳥の羽ばたきもない。

すべての音が、まるで「森に吸い込まれている」ような感覚だった。


——この空間だけが、切り取られたような静寂。


霧は薄く、それなのに深い。

視界の端で、淡く青い光がまたちらついた気がして、二人は反射的にそちらへと身を傾ける。


だが、それは揺れる水滴の反射だった。

敵ではない。

けれど、その「気配の幻影」が、確実に精神を削っていく。


「動いたら、狙われるな」


エイダの声は、低く硬い。


森の空気に溶けるような、低音。


カリナは頷く。

動けば、気配を乱す。

気配が乱れれば、それを獣に読まれる。


そう。これはもはや「戦闘」ではない。

潜り込んだ者と、潜られた者の、沈黙の中の駆け引きだった。



ザァァ——


ふと、風が戻ってきた。


一筋の風が、木々の間を縫って流れる。

乾いた匂いとともに、何かが通った気配。


それを合図にするように、

遠くの枝葉が、微かに震えた。


「……来る」


カリナは矢を構える。

だが、それが「どこから来るか」はまだ、視えていない。


森は、静かに、呼吸を始めていた。


カリナの手に握られた矢の羽根が、微かに揺れていた。

けれどそれは風ではない。揺れているのは、彼女自身の内なる空気だった。


「……森が息をしてる」


誰に言うでもなく、囁くように呟く。

弓を構えることはなかった。ただ、矢を指に挟み、射るべき“線”を探していた。


森に沈んだ青焔獣の気配。それは獣の罠であると同時に、この渓谷の変質した空気そのものだった。


“自然の輪郭が曖昧になるとき、獣もまた、見えなくなる”


そんな言葉を、ロッツォはかつて語っていた。


「風は耳で聞くもんじゃない。体で、骨で聞け。目に映る光より、空気のひずみを信じろ」


その教えが、今、静かに蘇る。


矢の先をわずかに下げ、呼吸を整える。

吸い込む空気は、霧と湿気を含み、少し鉄の味がした。これは、温泉帯の硫黄と、焔の獣が燃やした土の匂いだ。


「——“目”じゃない」


カリナは、弓の弦を一度だけ軽く撫でた。弓の芯が、微かな音を返す。

それは彼女にとっての“問いかけ”でもあり、“感覚の呼び水”でもあった。


森に満ちる濃淡のない霧。

沈黙に埋もれた音の波。

湿った風の撫でる木肌のざらつき。


それらすべてが、まるでひとつの生命の鼓動のように——揺れていた。


「……来る」


その瞬間、空気がわずかに変わった。


風の通り道がずれる。

音の届き方が変わる。

匂いが、一瞬だけ、強くなる。


「そこ——!」


放たれた矢は、光を裂くよりも静かに、獣の“気配”に向かって放たれた。


視界には、まだ何も映っていない。

だが彼女には“見えて”いた。目の奥ではなく、心臓の近くで。


青焔獣の焔が、そこでまた、——揺れた。


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