第201話
青焔獣の口からは湯気のような吐息が溢れている。
ゆっくりと周囲を眺めるように視線を傾げ、気品さえ感じさせるほどの足取りでその場に留まっていた。
その巨体からは、熱が波のように広がっている。
呼吸のたびに背中の発光器官が脈打つ。
角の根元には魔力が集い、瞳が、カリナを——弓を構えるその一点を睨み据えていた。
距離、十二メルト。
斧には遠く、弓にはぎりぎりの間合い。
カリナは一歩後退しながら、獣の視線を引き受ける。エイダはその隙に、背後の木立へと身を滑らせた。
狩る者と、狩られる者。
その線引きが、今この一瞬、曖昧になる。
空気が鳴る。
風が息を潜め、葉の一枚一枚が止まって見えた。
カリナは、視線を固定したまま次の矢を番えていた。
それはすぐには放たれない。
選択の一手、次の動線への“繋ぎ目”だ。
戦いの中では常に“攻撃となり得る範囲や有効点”を拡げ続けなければならないが、今が、まさしくその典型だった。
互いに防御を兼用できる距離。
エイダが死角に隠れることによって攻撃の幅が広がっていた。
空いた空間のスペースを利用し、戦局を有利に進めることができた。
ただ、それ以上に犇めいていたのは、密度の濃い「攻守」のせめぎ合いだった。
——動いた方が、負ける。
青焔獣とカリナ。
その間に走るのは、もはや距離ではなかった。
気配の均衡、鼓動の速度、そして静けさの裂け目。
エイダの気配が、青焔獣の背後でわずかに浮上する。
この距離、——時間。
カリナの膝が、わずかに沈む。
重心は低く、だが硬直してはいない。風の流れに背を預けるように、筋肉をほぐし、いつでも放てる弦の張りへと神経を澄ませていた。
向かい合う青焔獣は、動かない。
その鱗は霧の湿気を弾いて鈍く光り、青白い背の発光器官が、心臓の鼓動と呼応するように律動する。
距離——十二メルト
俊敏な機動力を持つ相手にとっては、弓の限界域。
放てば届く、だが避けられる距離でもある。
青焔獣は“見て”いる。ただの魔獣ではない。本能の底に、戦いの“間”を感じ取るだけの直感がある。
油断のない目。呼吸の浅さ。尾のゆらぎ。どれもが、次の瞬間に起きる“何か”を待っていた。
後方。浮上したエイダの気配が、影の中に横断していく。
カリナは見ない。けれど、空気が教えてくれる。
斧を構えた姿勢。腰を沈めて、筋を張った左腕。踏み込みに必要な余白を、彼女はすでに踏み切っていた。
問題は、起点。
どちらが先に動くか。
どの“瞬間”に、空気が崩れるか。
——一歩目。
それはこの戦場で最も重い動作。
呼吸の切り替え一つで、すべてが決まるかもしれない。
(……二秒、もらえる?)
カリナが“音にならない声”を発したのは、囁きにも満たない響きだった。けれど、エイダの耳には十分だった。
「一秒で足りる」
彼女の応えは、風のように短い。
一瞬。
青焔獣が、カリナの足の動きを見た。眼球が、わずかに追う。
次の瞬間。カリナは逆に、足を引いた。
前ではなく、後へ。
後退という選択。だがそれは、青焔獣にとって予測外の動きだった。
視線が迷い、重心が一瞬、方向を誤る。
そこへ、エイダが動いた。
音のない疾走。外套が風に舞い、落葉が逆巻く。双斧が風を割り、青焔獣の右肩を狙って交差する。
だが——獣も、甘くはない。
エイダが背後で蠢いていたのは、すでに察知していた。
死角からの攻撃と言えど、十分に対応できる“余白”がある。
それにまだ、“見せていない”ものがあった。
それは本能の一端に収納された「野生」の中の引き出しであり、獲物を狩るための1つの手段。
誘い込んでいたのは青焔獣の方だった。
飛び込んできたエイダに対し、炎を立ち上がらせる。
首筋から背筋にかけて勢いよく噴射された蒼炎が、エイダのいる上空へと燃え上がったのだ。
ただの反撃ではない。
それは、“相手の視界を塞ぐための一手”だった。