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第199話




青焔獣の燐光が、森の奥で揺れていた。


風は静かだった。けれど、その静寂は、決して穏やかで心地の良い“静けさ”ではなかった。


湿った葉が微かに擦れ合う音すら、肌を撫でる冷気のように緊張を運んでいた。


カリナは膝を低く落とし、獣人の爪先で土の感触を探る。足裏を通して伝わる微かな振動に、青焔獣の重たい足取りを読んでいた。


一方で、エイダは巨躯を低く沈め、草葉の陰から鋭い目を光らせている。双斧の柄をゆっくりと回しながら、身体の芯に流れる魔力を抑え、動く時を待っていた。


「——西、あと五十メルト」


カリナの声は囁きよりもさらに細い。だが、それだけで十分だった。


エイダが小さく頷き、体の軸を微かにずらす。


二人は距離で戦っていた。


間合いを測り、角度を計り、音と気配を透かし合う。


カリナは木陰を巡る風の中に身を溶かし、弓を引き絞る。呼吸は止めず、細く長く、息を繋ぐ。弦が鳴らぬように、意識は指先に集約された。


エイダは一歩、地を踏みしめた。


土がわずかに沈み、落ち葉が一枚、浮いた。青焔獣の光がふっと揺らぐ。


「……動くかも」


カリナがそう呟いた瞬間、獣の影が、森の奥でわずかに振れた。


尾が揺れ、光が線を描く。空気が、ふっと熱を帯びる。


カリナとエイダ、その距離は木一本分しかなかった。


だが、二人の間には、言葉以上の連携があった。風の流れ。葉の重なり。呼吸と心音。それらが導線となって、彼女たちを結んでいた。


一発目の矢が、まだ放たれない。


けれど、獣人たちの戦いは、もう始まっていた。空間すべてが、彼女たちの「間合い」の一部となっていた。




青焔獣の尾が、ふいにぴくりと揺れた。


湿った空気の中で、ほんのひとしずくの緊張が、張りつめた糸のように風景を貫いた。


カリナは弓を半引きのまま、その姿勢を崩さない。獣人の耳が風の向こうを捉え、毛並みがわずかに逆立つ。


「……まだ、見つかってない」


囁くように、唇だけが動いた。言葉というよりも、気配の共有。エイダに向けられたその一片は、空気の震えに乗って、的確に伝わった。


彼女の瞳もまた、じっと青焔獣を見据えていた。


獣は森の奥、広葉樹の影に身を伏せるようにして潜んでいた。尾は草を払うように、時折ゆるく振れている。動きは緩慢で、獲物を探すというより、自らの“間”を測っているようだった。


「一度、木陰に紛れて迂回する……」


カリナの膝が、わずかに土を踏みしめた。


次の一歩は、エイダが先だった。


彼女は静かに双斧の重みを移し、左の足をほんの一歩、葉の陰へと滑らせる。落ち葉一枚が、音も立てずに押し潰される。


まるで、呼吸のようだった。


互いの距離は——八メルト。木一本と、斜面の高低差。


カリナの視線が、獣の背に光る魔導器官を捉えていた。呼吸のたびに微かに揺れるその燐光は、発熱を示す小さな証明でもあった。


だが、それは同時に、カリナたちの存在がわずかでも風に流れれば、青焔獣に知られてしまう危うさを意味していた。


エイダの肩が、すこしだけ沈む。呼吸を整え、動作の一つひとつを“沈めて”いく。


カリナもまた、弦を張ったまま、全神経を右耳に集中させる。


「——風、止んだ」


音が、死んだ。


そのとき、獣の尾がぴたりと止まり、首がわずかに持ち上がる。


空気が、変わった。


今、もし一つでも枝を踏めば、それだけで森は地獄へと転ずる。静寂という幕の向こうにあるのは、咆哮と牙と、熱気にまみれた暴威——


「……動いたら、私が引く。そしたらお願い」


カリナの声は、風の粒よりも細かった。


「了解」


エイダの低い声が、地を這うように届く。


だが、まだ——その瞬間は来ていない。


距離は保たれ、空気は濃くなり、鼓動だけが、音を持って森に響く。


すべては、“その一歩”のために。




沈黙が、限界まで張りつめた。


青焔獣の首が、わずかに傾く。その瞳はまるで夜石のように冷たく、鈍い光を宿していた。


——気づいたか?


カリナの胸を一筋、冷たい感覚が駆け抜ける。


否。確信にはまだ至っていない。ただ、何かが“いる”と感じているだけ。だからこそ——


今、動ける。


「——っ」


カリナの足が、葉の間を撫でるように滑った。音はほとんどない。だが、青焔獣の視線がはっきりと彼女の方へ向く。


その瞬間、燐光が——膨らんだ。


背の器官が一斉に脈動し、青白い光が走る。


「——!」


青焔獣が、跳ねた。


4mを超える巨体が信じられない速度で森を裂く。地面が軋み、枝が砕け、湿った空気が爆ぜる。


カリナは、跳んだ。


風纏い(ウィンドラッシュ)を脚に乗せ、斜面の岩肌を一気に駆け上がる。足場は不安定。だが、彼女の足取りに迷いはなかった。


「今ッ!」


彼女の声が、風を切って走る。


その言葉が響くと同時に——


エイダが動いた。


斧の柄が、彼女の背で回転する。両腕の筋がうねり、魔力がその刃に集束してゆく。空気が揺れ、葉が舞い、斧は闇の中に二つの閃光を描いた。


「——“断ち割る”」


静寂を押し込むように、彼女は溜め込んだ魔力を一点に集中させた。


元々彼女は近距離で戦うファイターだ。


間合いは出来るだけ近く、狭い方がいい。


しかしこの場面。


彼女は斧に流した魔力を矢のように飛ばすための“位置”を探っていた。


直線的な軌道でありながら、針のように細い「隙間」。


振り上げた斧が、最小限の動きの中で垂直方向に下ろされる。


ほんの数十センチの可動域ではあった。


だが、斧から放たれたその斬撃は、鋭い放物線の中に“確かな質量”を運んでいた。



ボッ



青焔獣の左前脚に、鋭い破裂音が走る。


だが、獣は止まらない。角を振り、尾をうねらせ、跳ねるようにカリナを追う。斜面を飛び越え、魔導器官が灼熱の煙を吹いた。


カリナは旋回するように身をひねり、岩場と岩場の高低差へ滑り降りる。背後から熱風が襲いかかる中、彼女は弓を引いた。


「——届く距離」


吐息は熱を越えて冷たく、意識はただ、一点に。


矢が、放たれた。


その矢は、青焔獣の右目と角の間をかすめ、燐光の集中点を裂くように突き刺さった。


爆ぜたのは光だ。空間がひときわ強く照らされ、青焔獣が雄叫びを上げる。


その間に、エイダが二撃目に向けて走る。斧を大地に這わせ、獣の背を狙う軌道に合わせて跳躍する。




燐光が、吹き上がる。


怒りに身を焦がすかのように、青焔獣の背にある魔導器官が明滅を強めていた。まるで焔の花が咲き誇るように、発熱と放電の兆しが森の空気を焼き焦がす。


「——シッ」


矢が貫いたのは空気だ。


流れるように足元を確保しつつ、弓と手の動きを連動させる。


下がりながら敵との距離を確保する。


焦らず、——ゆっくりと。


かといって、動きが緩慢なわけではない。


その足取りは俊敏で、常に数手先の間合いと距離を意識の延長線上に置いている。


腕は矢を放つための動作を。


足は空間を確保するための“奥行き”を。



バッ



カリナの動きに応じ、エイダが斧を構え直す。


前と後ろ。


挟み込むように獣を誘い込む。


柄を握りしめ、地面に乗せた体重——



「喰らえッ」



走りながら溜めた力を、上半身へと移動させる。


斧を振り下ろせる位置。


その接点に踏み込もうとしたエイダだったが、敵はすでにそれを察知していた。


太く、しなやかな筋肉を震わせつつ、獣の尾がしなる。


——ヴォンッ


鋭く放たれた尾の一閃が、空間を切り裂いた。音を置き去りにするような速さだった。


エイダは間一髪、横転してかわした。苔むした地面に背を擦るようにして転がり、再び斧を構え直すも——青焔獣の姿が、視界から消えていた。


ここは森の中だ。


獣が“狩り“をするには、これ以上ない立地。


空間としての広さも。


光と影の交差点も。


「高い——!」


エイダの視線が動くとほぼ同時。


青焔獣は、跳躍していた。


大地を蹴り、空を裂き、木と木の間を立体的に移動する。


木漏れ日の中、——そのずっと奥深くに体を沈ませ、四肢を回転させる。


高低差を利用した角度。


その最大点を突きながら、カリナめがけて降下してくる。その腹部にある発熱器官がうねり、霧を焦がしながら熱波をまとう。


「カリナ、退け!」


エイダが、声とともに斧を振るった。


体勢を崩しながら、それでも喰らいつくように柄の先端を握りしめた。


風を割ったその一撃は、獣の背を僅かにかすめる。しかし、獣の体重は勢いを落とすことなく、カリナの立つ位置へと急降下していた。


だが、カリナは止まってなどいなかった。


迫り来る巨躯に物怖じもせず、戦局を冷静に見つめていた。


跳躍した直後だった。


矢筒を払って、一本の特殊矢を取り出したのは。


下がりながらも距離を測り、青焔獣の”生態“を頭の中で分析していた。


矢尻には、淡く光る紫の結晶。


「弾けろ、——音羽おとは!」


矢が放たれた瞬間、空気が震える。


矢は獣の耳孔近くへ吸い込まれるように飛び込み、その瞬間、小さな爆音を立てた。


耳奥で響く“衝音”に、青焔獣が呻くように身をよじる。落下軌道が崩れ、カリナの脇をかすめて地面へと激突する。


「今行く!」


叫ぶのはエイダ。


地に伏せた獣の背へと跳躍し、両の斧を交差させて振り下ろす。斧は、獣の発熱器官の一つを正確に断ち切った。



ブシュッ



爆ぜる熱と光。


それでも青焔獣は、なお動きを止めない。


カリナが次の矢を番え、エイダが体勢を崩さぬよう構える。



(油断すれば、こちらが裂かれる。)



そんな緊張が、二人の瞳の奥に宿っていた。


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