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第198話




谷を渡る風は、遠くの木々を優しく撫でていた。梢の葉が音もなく揺れ、陽光が間を縫うように差し込む。朝の冷気がまだ地面に残っていた。二人の吐息が白く薄く、空へと溶けていく。


エイダが一歩踏み出すたび、その大地に馴染んだ体がわずかにしなる。カリナもまた、足元の感触を確かめるように、丁寧に歩を進めていた。どちらも人より敏捷に、しかし獣のように“無造作”ではない。


ユルデンの山野は、人と獣の境界線を曖昧にするような幻想的な場所だった。


空気には鉄分を帯びた岩の匂いが微かに漂い、湿った苔と落ち葉が、木々の中に落ちる緩やかな足音を吸い込んでいく。こうして歩いていると、2人はどこかに戻っていくような気もした。まだ、人と獣の「間」で揺れていた遠い子供時代の日々、——山の声や木々の視線を、感じていた頃へと。


「この感じ、好きなんだよね」


カリナがふとつぶやく。


「静かで、でも空っぽじゃなくて。全部が呼吸してるみたいでさ」


「……わかるよ」


エイダの返事は短かったが、どこか柔らかく響いた。


風が、葉の隙間を通り抜ける。その音は、まるで何かを告げる囁きのようでもあり、遠い記憶をくすぐる旋律のようでもあった。


彼女たちは獣人であり、同時に街や村に生きる“人”でもあった。


ユルデンのような土地は、そんな曖昧な存在を受け入れてくれる場所だった。都市の端、自然の始まり。人の技術と、獣の本能、その両方が拮抗して混じり合う、——霧と空が交差する場所。


この不思議な地形の中で、二人は自分たちの居場所を築いてきた。


そして、今も歩き続けている。


それぞれが背負う仕事と、種としての誇り。変わる時代の風の中で、それでも“変わらずあるもの”を信じていた。



踏み慣れた道は、もう背後に消えていた。


獣道とも呼べぬような斜面を、カリナは迷いなく進んでいく。狼の血を引くその脚は、地を測るように正確に、力強く地面を捉えていた。足裏が湿った苔を踏みしめ、爪先が岩肌の割れ目を捉える。森の重力に逆らわず、だが飲み込まれることもなく。


獣人の歩みとは、自然に溶け込みながらも己を譲らない、静かな歩調を奏でる「音」でもあった。


エイダの後を追うように、カリナは木々の間を縫う。そこには決して“道”はない。ただ風の通り道と、獣たちが刻んだかすかな痕跡、そして自分たちの勘があるだけだった。


視界の奥が、徐々に濃くなる。


樹冠は広がり、陽光を拒むように葉を重ねる。光の代わりに、湿った空気と草の匂いが濃度を増し、森が呼吸しているのが肌でわかる。踏み込むごとに、音が吸い込まれる。鳥の声すらも聞こえなくなり、二人の呼吸と足音だけが、世界の輪郭を縁取っていた。



森は深かった。


だがそれ以上に、己の奥へと潜っていくような感覚が、肌の奥へと浸透していた。


一歩。また一歩。


その足取りが向かう先は、魔獣の棲み処かもしれない。だが同時に、それは獣人としての血脈の記憶、自分がどこから来て、どこへ向かおうとしているのか――そんな問いに対する、沈黙の答えでもあった。


エイダが一度、立ち止まる。


前方の大きな倒木を越えて、霧が薄く立ち込めているのが見えた。


「……この先だ」


彼女がそう告げたとき、カリナはわずかにうなずいた。


“獣の足”が刻む軌跡は、やがて“人の意志”と交差する。


森の奥、深く。何かが待っている。


そして――その先に足を踏み出すことで、またひとつ、彼女たちは森と人の境界線の向こうへと辿り着く。



空気が変わった。


エイダがひとつ、息を吸い込んだ。カリナも、それに倣うように鼻先をくゆらせた。


“焔”の気配。けれど、それはまだ遠い。熱ではない。肌を焼くようなものではなく、もっと深いところにある“息遣い”。


森の静けさの奥、湿った土の中から、微かに滲み出してくるような、青く淡い燐光。


「……いるな」


エイダが低くつぶやく。声は音になりきらず、草の揺れの中に溶けていく。


彼女たちが追っているのは、「青焔獣セイランビースト」――


入り組んだ地形と峡谷地帯の一角、せり出した岩場と硫黄が噴き出す温泉地帯を棲家とする、希少性の高い魔獣だ。単独行動を好み、特定の地熱の高い斜面や、水蒸気が充満する森林に姿を現すとされる。捕食対象を焼き尽くす“青い焔”は、可燃性の魔力を帯びた液体を体内で生成し、爪の先や口元から放つことが報告されている。


その足跡は熱に強い苔を焦がし、落ち葉は湿り気を帯びたまま燃え、木々には黒く焦げた螺旋状の焼痕が残る。


カリナは足を止め、地面にしゃがんだ。


指先でそっと、苔をなぞる。温かい。まだ、踏み込まれてから日が浅い証拠だった。


「このあたり……通ったばかりだ」


言葉にすることで、森がさらに静かになる。風が止み、枝の上にいた鳥たちがどこかへ飛び立っていった。


カリナは顔を上げた。視線が、森の奥のわずかな光の揺らぎを捉える。まるで空間そのものが波打つような、熱に歪む幻影のような気配が漂っていた。


「追うか?」


エイダの問いに、カリナはわずかにうなずいた。


彼女たちの脚は、音を立てずに動き出す。


足裏が土を感じ、爪が苔の湿り気を伝える。獣人族の嗅覚は、ただ匂いを嗅ぎ分けるのではない。森に染み込んだ“体温”や“気配”までも識別し、自然の中にある「呼吸」と、自身の感覚を重ねていく。


彼女たちは、ただの狩人ではなかった。


森とともに在り、獲物と向き合い、命の流れの中で特殊な気配を見極める“存在”だった。


森の奥へ――


蒼き焔が潜むその先へと、彼女たちはさらに深く、静かに、進んでいった。




深い森の吐息は、風の音ひとつ立てずに枝葉を揺らしていた。


気配だけが満ちていた。声なき音、熱なき焔。その在処を、カリナの嗅覚が確かに捉えていた。


「……もうすぐだ」


彼女の耳が微かに震える。聞こえるのは鼓動と、木々が自らの影を揺らす音。そこに、人と獣の境界が溶け込んでいた。呼吸が浅く、鋭くなる。肺が森の空気を吸い込み、皮膚が空気の重さを記憶する。


その空気は、乾いても湿ってもいない。熱くも冷たくもなく、どこか曖昧で、掴みどころがなかった。


まるで——世界そのものが、“焔の兆し”に迷っているようだった。


木漏れ日が一瞬、陰った。雲が動いたのではない。焔が、どこかで空気を歪ませたのだ。


エイダの目が細くなる。彼女もまた、気づいている。目では見えない「存在」が、どこか近くにいることを。


時代が変わるとき、世界は静かに歪む。


それは決して、大きな音を立てるものではない。ただ、今までとは違う風が吹き、今までと同じ木々が、知らない色を纏い始める。


青焔獣——それは、そんな変化の象徴だった。


焼き尽くすのではない。ただ、すべての輪郭を“揺らがせる”。


過去と未来の境界に立ち、曖昧さの只中にその身を置く獣。


森の奥から、焔の匂いが届いた。


カリナは、踏み出した。


それはただの一歩ではない。この森に、彼女という存在が“息づいた”瞬間だった。


音が消え、風が止み、世界が呼吸を忘れる。


そして、全ての時間が立ち止まりそうなほどに空気が“波打つ”一瞬——焔の眼が、こちらを見ていた。



静寂の森が、揺れた。


一歩、また一歩。森の奥へと進むごとに、空気の密度が変わっていく。湿り気を帯びた苔の匂いに混じって、鉄のような、焦げたような、どこか懐かしい匂いが鼻先をかすめた。


「……いた」


カリナの低い声に、エイダが頷く。言葉はいらなかった。二人の呼吸が同調し、体の奥底に眠っていた獣の本能が、目を覚ます。


木々の隙間、岩陰の向こう、朧げな熱が、空間を滲ませていた。


それはまるで、夜の焚き火のようだった。はっきりとした輪郭を持たず、ただ、存在するだけで周囲を焼いていく静かな炎。


——青い焔が、そこにいた。


青焔獣セイランビースト


肩ほどの高さしかない体躯。しなやかに引き締まった四肢。額に灯る焔は、まるで蝶が羽を休めているような優雅さで揺れている。


その眼差しは、人と獣の境界を睨みつけるように、儚げに脆く、——鋭い。


見透かすようで、何も見ていないようで。


言葉の届かない遠い場所に、ただひとつ、静かに在る存在。


カリナは一歩踏み出す。その足裏が土を掴み、わずかな音を立てた。



キシッ



枝葉が折れるような、そんな乾いた音だった。


——青焔獣の焔が、揺らいだ。


風が、走る。


空気が引き裂かれるようにして、焔が弾けた。地面が焼け、草が一斉にしなだれ、土の下の命が怯えたように逃げ出す。


エイダが矢を番える。その動きは、無駄のない、研ぎ澄まされた一振りの刃。


カリナの足が地を蹴る。風が脚に絡み、木漏れ日が一筋、彼女の銀毛に反射する。


焔と風。静けさと咆哮。人と獣。その狭間で、戦いが始まろうとしていた。



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