第197話
風が変わったのは、朝靄が渓谷を抜けた頃だった。
ユルデンの街並みに、陽光がひと筋、垂直に差し込む。吊り橋の縄がきしみ、遠くで湯煙が立ちのぼる。いつもの風景だ。けれどカリナは、その静けさの向こうに、微かなざわめきを感じ取っていた。
──変わってゆく時代の音。
「ロッツォが言ってた、新しい空便のルート……か」
つぶやいた声は、誰に届くでもなかった。彼の話、あの草原での語り口は、まるで旅立つ鳥が翼を広げる瞬間のようだった。彼が見つめていた“その先”を、まだカリナは知らない。けれど、今は自分の「目の前」に集中すべき時だと思った。
カリナ・ルッツ。獣人族の若き配送者。
だが、それだけではない。彼女は「走る食材調達屋」として知られる、魔獣食材の狩人でもあった。
そしてそんな彼女の元に、“新たな依頼”が舞い込んできていた。
──依頼主は、南の港湾都市マルヴァレッタ。
海と交易の町。その波打ち際にある小さなレストラン、「ラ・フローラ」の料理長から、ある食材調達の依頼を受けていた。帝国でも名の知れた創作料理人で、“生きたまま運ばれた食材”にこだわる風変わりな男。
「青焔獣の心核肉が欲しい」
そう言われた時、思わずカリナは噴き出した。あれは深い山間部に棲む魔獣で、しかも群れを成さない。極めて気性が荒く、奇妙な発光をする体毛を持つ。食材として価値はあるが、狩れる者は限られていた。
今回は一人ではなかった。依頼の規模を考慮し、腕利きのハンター──「双斧のエイダ」と組むことになっていた。
ユルデンの西部、薪炭の村の出身で、筋骨隆々の斧使い。狩猟ギルドには属していないが、その腕前は折り紙つき。必要最小限の言葉しか交わさないタイプで、カリナはエイダの実直さを好んでいた。
「準備は、できてるか?」
朝、宿場町の広場で合流したエイダが、カリナの荷を一瞥して言う。
「もっちろん!そっちこそ、遅れないでよ?」
冗談めかしたような軽い口調で話すその口ぶりは、2人の距離感が、より身近な場所にあることを意味していた。
返したカリナの声には、エイダに対する信頼はもちろん、狩人としての軽快な“仕草”も滲んでいた。
風はまだ静かだった。だが、これから向かう山岳地帯の空気は、きっと荒れている。青焔獣の息づかいが、すでに森の奥で、熱を孕んで待っている。
これはただの配送ではない。
魔獣の討伐は常に危険がつきまとう。場合によっては、“命の危険が伴うこと“もザラにある。
カリナは背中の符札にそっと触れた。風が、脚に力をくれる。
そしてふたりの影は、陽に照らされた石畳の先へと、迷いなく踏み出していった。
朝の光が、まだ浅い山肌を淡く染めていた。
ふたりの影は、ユルデンの外れに広がる細道を、ゆっくりと刻んでいた。深い針葉樹林に囲まれたこの道は、湿った土の匂いと、遠くで囀る鳥の声に包まれている。
「静かだな」と、エイダがぽつりとつぶやいた。
彼女は相変わらず無口だったが、そのひとことに、どこか落ち着いた安堵の響きがあった。
「……静か過ぎて、逆に落ち着かないって人もいるけどね」
カリナは笑いながら、草むらに揺れる朝露を見やった。
彼女は、この沈黙が嫌いではなかった。言葉少なでも、エイダとの間には“狩り”という共通言語がある。
エイダ・ハインリヒ──通称「双斧のエイダ」。その名の通り、彼女は二本の斧を操るハンターで、魔獣の気配を読む嗅覚と、頑強な斧を自在に操る繊細さを併せ持つ。ここユルデンの地方では、“赤髪のバーバリアン“の異名でも知られていた。
獣人と人間のハーフで、幼少期から森の中で生活を送ってきた。
その分、自然林や山岳地帯に棲む”獣“を狩るための知識は、カリナよりも上であった。
広い視野を持ち、狩りとしての経験は群を抜いている。
「森に潜む魔物は、“よそ者の気配”に敏感だ」と、エイダは以前に言っていたが、その時の彼女の鋭い視線は、道中の草むらや木陰を余さずなぞっていた。
いつ、どこから何が出ても対処できるように。
「……あのさ、前から聞いてみたかったことなんだけど」
「なんだ?」
「エイダはさ、なんでハンターになろうと思ったの?」
カリナがふいに問いかけた。彼女の問いは、特に深い意図があったわけじゃない。ただ、歩く速度とともに、少しずつ口に出してみたかった言葉だった。
エイダはしばらく黙っていた。鳥の鳴き声と、風に揺れる葉の音だけが、ふたりの間を埋めていた。
「……生きてるって、感じるからだよ」
それだけだった。けれど、カリナはその言葉に嘘がないことを感じた。エイダにとって、狩りとは“生存の証明”であり、世界との接点なのだろう。
遠く、ルーマニア川の支流が流れる音が微かに聞こえてきた。大河の支脈が、この渓谷地帯を縫うように流れている。
陽はゆっくりと昇り、深い緑の葉に斑模様の光を落としていく。
ふたりはその中を、ただ静かに進んでいく。
やがて森の奥、青焔獣の棲むと言われる区域が近づく。気温がわずかに下がり、空気に緊張が混じり始めていた。
それでも、ふたりの歩調は乱れなかった。
それが、狩人の“足並み”というものだった。
しばらく無言で歩いていたカリナが、ふと足を止めた。風が背後の崖壁を滑り降り、草を揺らす。
「ロッツォがさ、言ってたんだよ。『ハイウェイ・ロード計画』ってのがあるらしい」
エイダが小さく眉を動かしたが、特に口を挟むことはなかった。カリナは小石を蹴りながら続けた。
「ユルデンの外れからルーマニア川の中流まで、真っすぐ繋ぐって。舗装された広い道で、魔導車両がどんどん走るようになるって」
語尾に、ほんの僅かな不安と苛立ちが混じっていた。
「そうなったら、私たちの道、なくなるのかな」
視線は、ぬかるんだ山道の先へと向けられていた。今、ふたりが踏みしめている場所であり、獣人族たちにとっての“土地”の一つだ。獣道にも近いその道は、古くから配送者や狩人が通ってきた生活の道だった。
エイダは腰にかけていた斧を少し掛け直すと、静かに言った。
「道ができる。人が増える。街が変わる。……当たり前のことだ」
「じゃあ、ユルデンも変わっちゃうってこと?」
「変わるさ。でも──全部が変わるわけじゃない」
エイダは、足元の岩肌に生えた苔をそっと指先でなぞった。
「この山は何百年も前からここにあった。川も、森もそう。人の作った道なんて、いずれ崩れる。風と雨で削れて、また土に還る」
カリナはそれを聞いて、ほんの少しだけ笑った。
「強いんだね、自然って」
「それと──仕事も。そういうもんだよ、“世の中”なんていうのは」
「……仕事?」
「誰かが望んで、誰かがそれを叶える。そのために動くのが、仕事。時代が変わっても、仕事の本質は変わらない」
エイダの声には、揺るぎのない芯があった。
「私が獣を狩るのも、お前が食材を運ぶのも、料理人が鍋を振るうのも、全部誰かのためだろ?」
カリナは頷きながら、もう一度風の流れる音に耳を澄ませた。
道は変わるかもしれない。けれど──歩く理由さえ見失わなければ、自分の足でどこへだって行ける。
それが、今の彼女にとっての“答え”だった。
----------------------------------------------------------------
【キャラクター】
名前:エイダ・ハインリヒ
年齢:27歳
身長:168cm
髪色:淡い栗色と、赤いメッシュ。無造作に伸ばした髪は、彼女の”自由”な生き方を象徴している
瞳色:深緑の瞳(昼と夜で色が微妙に変わる)
体型:引き締まった筋肉質の体格、小柄だが重心が安定している
装備:双斧〈グリムアッシュ〉、獣革と魔布を融合させた防具、風除けのフード付き外套
⸻
【生い立ちと背景】
エイダは北部の森に点在する狩猟民の集落「グラーデン」の出身。獣人と人間の混血として生まれ、幼少期から人里では肩身が狭かった。自然の中で育ち、獣の息遣いを感じながら狩猟術を習得。成長後は各地の山野でハンターとして生計を立て、腕ひとつで生き延びてきた。
彼女の狩りには、自然と一体化する静けさと、獣の本能の鋭さが同居している。依頼を受けるたびに各地を転々とする放浪のハンターであり、ユルデンには“たまたま”長居しているに過ぎない。
⸻
【所属ギルド:なし(独立系ハンター)】
エイダはギルドに属さず、完全に個人契約で動いている。
そのぶん、組織に縛られることなく自由だが、裏社会の依頼や危険な討伐も少なくない。
■ 特徴
・依頼の精査が徹底しており、納得しない仕事は絶対に引き受けない
・報酬よりも「誠意」を重視する
・通常のハンターでは踏み込まない魔獣の巣や未踏域にも赴く
⸻
【ハンターとしての顔】
魔獣狩りの中でも、「希少種専門」のハンターとして知られている。
毒性の高い個体や、生息域が特殊な魔獣を得意とし、依頼主の多くは研究者、貴族、美食家、または鍛冶師。
採取した素材は正確無比。鮮度・部位選定・回収方法に長けており、一部の職人からは絶大な信頼を寄せられている。
⸻
【普段の生活】
・ユルデンでは森の縁にある廃小屋を仮住まいにしている
・必要最小限の荷物で生活し、金銭もあまり貯め込まない
・狩りに出ていない日は、山間の渓流で弓の練習や植物の観察をしている
・カリナとの関係は“仕事仲間以上、友達未満”。だが信頼は深い
⸻
【人物像・性格】
・無口でぶっきらぼう。だが、誠実で筋の通らない行為を嫌う
・弱き者に手を差し伸べることはあっても、恩着せがましくない
・生死の境を何度も越えてきたため、物事を俯瞰する視野を持つ
・カリナに対しては「無邪気なまっすぐさ」を羨ましく思っている節もある