第195話
「……ハイウェイ・ロード計画?」
カリナはその言葉を、ゆっくりと繰り返した。耳慣れない響きが、草の揺れる音よりも重たく、胸に落ちてくる。
「それ……最近決まった話?」
問いかける声には、驚きと戸惑い、そしてどこかに微かな警戒が滲んでいた。
ロッツォは少しだけ視線を逸らしながら、小さく頷いた。
「正式に通達が来たのは、1ヶ月ほど前だ。ただ、まだ“本腰”ってわけじゃない。帝都の役人が視察に入った程度だよ。実際の工事が始まるには、まだ時間がある……とは言ってもな」
言葉の端々に、ロッツォ自身の迷いが滲んでいた。
彼は空を見上げた。白く伸びた雲の向こうに、いつかの帝都の輪郭が霞のように浮かんでいるような気がした。
「便利になるかもしれない。物流も、人の流れも、もっと活発になる。街に仕事が増えて、物が豊かになって、旅人も商人も、もっとユルデンに集まるかもしれない」
「けど……?」
カリナが促すように問いかける。
ロッツォは、しばし沈黙し、草を指先でなぞるようにしながら、ぽつりと語りはじめた。
「それと引き換えに、“ここ”が“ここ”じゃなくなる可能性もある。木々が伐られ、岩が崩され、谷に道が貫かれれば、霧羽獣の巣もなくなる。風の流れも変わるかもしれない。……そして、誰かがここで暮らす理由も、いつかはなくなってしまうかもしれない」
彼の声は穏やかだったが、芯の部分に、深い憂いがあった。
「人間は昔からそうだ。拡げて、進んで、造って、そして壊していく。あの森も、もしかしたら……」
カリナは風の匂いを感じながら、草原の向こうに広がる森を見た。
その森は、彼女が狩りを覚えた場所だった。
子どものころ、ロッツォに背中を押されて、初めてひとりで踏み込んだあの獣道。
今もまだ、そこに霧が降りている。風が葉を揺らし、小さな命が眠る場所。
「……そんなの、あんまりだよね」
小さく呟いたカリナの声は、風のなかに溶けていった。
そして、ふたりのあいだに沈黙が落ちた。
けれどその静けさは、ただの沈黙ではなかった。
何かを失う前に、守らなければならないものがある。
そんな予感が、風と共に、ふたりの胸をゆっくりと揺らしていた。
「断ることは、できるんでしょ?」
カリナの問いは、どこか子どもじみていた。けれどその声の奥には、真剣な祈りにも似た願いがこもっていた。
ロッツォは、しばらくのあいだ黙っていた。風が草を撫でる音が、ふたりのあいだの静寂を埋めていた。
やがて彼は、ゆっくりと唇を開いた。
「……できなくはない。けど、簡単じゃないんだ」
ロッツォの視線は、はるか谷の向こう、帝国のある方角を向いていた。
「今、鉄道計画があちこちで進められてるだろ?街はどんどん発展していって、便利な世の中になりつつある。悪いことじゃないとは思うんだ。街が発展すれば、人の暮らしも豊かになる。暮らしが豊かになれば、俺たちの仕事も…。ただ…」
「ただ?」
「俺たちの「仕事」は、ただ人や場所に“物”を届けるためにあるわけじゃない。カリナもよくわかってるだろ?大事なのは「心」だって」
「…えっと」
カリナは困ったような顔を見せたが、彼の言いたいことはわかっていた。
彼のように空を飛びたい。
そう思うようになってから、いつしか世界を旅することを夢見るようになった。
「心」。
彼が言いたいのは、配送ギルド、——つまり彼が配達員として活動していく上での矜持だった。
子供の頃から、彼女に言っていた。
人と人を結ぶ場所には、確かな「距離」があると。
たとえ空を飛べても、水の中を泳げたとしても、その距離を埋められる何かがなければ、「配達」は務まらない。
ロッツォは幼少時代から、ひどい差別を受けて生きてきた獣人族の1人だった。
人と獣人族、その2つの種族の中に揺らめく社会に、しばらく溶け込めずにいた。
この街に引っ越してきて、自分がなぜ翼を持って生まれてきたかを考えるようになった。
それからだ。
——彼が、自分自身の「価値」を確かめたいと思うようになったのは。
「ようは“気持ち”だって、そう言いたいんでしょ??」
「…まあ、そうだな。どれだけ便利になっても、それだけじゃ成り立たないことだってある。時間がかかってでも、ちゃんと「手」が届く物じゃなきゃダメだって、俺はそう教わってきた」
「…手?」
「なんつーんだろうな。俺もまだ、わからないことがたくさんあるんだ。…でも、結局、「仕事」ってのは“求められてこそ”なんだと思う。誰かが誰かを必要とする。そういう“気持ち”っていうか…、心の繋がりみたいなものが、「人」と「場所」を繋げる“時間”になるって、——そう思うんだ」
彼の言葉は柔らかい歩調を帯びながら、なおも力強い語気を含んでいた。
カリナはじっと聞いていた。
彼の言葉をそっと耳の中に閉じ込めようとして、掴みどころのない音が、鼓膜の内側を通り過ぎていくような気もした。
彼の言葉は水のようだった。
くすみがなくて、透き通っていて。
だけど——
「…他の人たちは、なんて?」
気がかりだった。
彼の話す口調には、砂を噛むような歯切れの悪さがある。
それがどうしても耳障りで、少しだけ指に触れてみたくて。
「半々って感じかな」
「…半々!?賛成の人もいるってこと??」
「ま、そういうことになるな」
信じられなかった。
カリナからしてみれば、街はいたって平和のようにも思えたからだ。
ユルデンには豊かな自然があって、豊かな暮らしがある。
ミレス支部の朝の営み、温泉街を訪れる多くの人、——何もかも変える必要がないもののように思えた。
何かを削って、壊して、今の日常を変えてまで、何かを取り入れるなんて…
「ユルデンは“準自治都市”だ。帝国の中にあって、ある程度の自由はある。でも、最終的には“帝国の意志”に従わざるを得ない。……それが、今の現状だ」
「……じゃあ、何もできないってこと?」
カリナの声には、焦りと戸惑いが滲んでいた。
ロッツォはかぶりを振り、慎重に言葉を紡ぐ。
「そうとも言い切れない。“風の道”をはじめとするギルドや職人たちは、この街の生きた血だ。もし、俺たちの価値を示すことができれば、この街を守るための交渉材料になるかもしれない」
彼の目はまっすぐだった。
「帝国の都市整備局は、“効率”と“利益”で都市の価値を測る。けど、それだけじゃない“ユルデンらしさ”を伝えられれば……もしかしたら」
カリナは黙ってその言葉を聞いていた。
頭ではまだ、すべてを理解できたわけじゃない。
でも、胸の奥で、ゆっくりと熱が灯りはじめていた。
風が吹いた。
霧の中、草の波がざわめき、ふたりの影が淡く揺れた。
「……じゃあ、アタシにできること、探さなきゃね」
その声は、決意というよりも、未来への“予感”のようだった。
ロッツォは微笑み、頷いた。
「そうだな。まだ、すべてが決まったわけじゃない」
希望と不安が、まだ拮抗している。
だからこそ、動ける今がある。
ふたりは、まだ霞む空を見上げながら、流れていく雲の峰を眺めていた。
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【ユルデンの政治体系】
◼︎都市の分類:ラント帝国の準自治都市に指定されており、帝国の法律と税制に従いつつも、内政や商業規制については独自の自治権を持つ。
◼︎統治機構:
・ユルデン市政評議会:地元の商人、職人ギルド、配送ギルド「風の道」代表などが参加し、内政と地域防衛に関する議決を行う。
・帝国派駐在官:帝都ルーヴェンより派遣される行政監察官(通称「高座官」)が、皇帝令の監視と外交・徴税の調整を担当。
・代表職:評議会で選出される**都市代表官**が執政を担当。現在は中立派のエルフ出身者が務めている。
【経済圏と自立性】
◼︎ 経済の基盤:
・狩猟・魔獣素材取引・温泉観光・地場産業(薬草、木工、鉱物加工)
・フェザーネットや「風の道」といった物流ギルドが発達しており、都市外との交流が活発
◼︎ 交易の中継点としての価値:
・北の山脈地帯からの鉱石輸送路、南西の貿易都市ロストンや交易都市マルヴァレッタとを繋ぐ地理的中間地
・渓谷特有の地形により、魔獣避けや自然資源の保全が効率的に行えることも強み
【ハイウェイ・ロード計画とその背景】
◼︎ 帝国主導のインフラ整備政策の一環として、魔導鉄道に続く陸上交通網の再構築を進行中。
◼︎ 「ハイウェイ・ロード計画」は、帝国本土と南方開発地(ロストン〜カルマーン方面)を結ぶ、軍用・商用兼用の大動脈構想。
◼︎ ユルデンはその計画の交差点にあたるため、開発庁が近隣森林と峡谷地帯における道路建設候補地として視察中。
【ユルデン側の立場と緊張】
◼︎ 市政評議会では開発容認派(主に商人・観光業者)と自然保守派(ギルド、獣人系住民)で真っ二つ。
◼︎ 帝国はこの事業を「地方振興」として宣伝しているが、実質は軍事移動路の確保および資源収奪の効率化が目的とも見られている。
◼︎ ユルデンの文化的・自然的資産が損なわれる懸念が根強く、慎重な対応を迫られている。