第193話
渓谷の街、ユルデンへと戻る道すがら、カリナは徐々に深まりゆく空の青に目を細めた。ミレス支部から続く峠道は、谷の斜面を縫うようにして延び、足元には時折、急峻な崖が姿を覗かせる。そこに吹きつける風は冷たく、谷底から立ちのぼる霧をほんのわずかに撫でていく。
この渓谷地帯では、街と自然がまるで呼吸を交わすように共に在る。木々は断崖に根を張り、細い吊り橋が集落を結ぶ。遠くから響くのは、木こりたちの斧音と、魔導鉱車の軋み。岩を削って築かれた石畳の道には、湿った苔と朝露が静かに息づいていた。
《グレイ・ホイール》を引きながら、カリナは時折、崖下に広がるユルデンの街並みを見やった。薄霧の向こうに、瓦屋根の家々がぽつぽつと灯をともしている。街の中央を通る大通りには、朝市の準備が始まりつつあり、獣人の子どもたちが背負い籠を抱えて駆けていく。
谷の両岸には複数の層にわたって住居や工房、商店が立ち並び、そのすべてが急勾配の石段や吊り橋、魔導リフトで繋がれている。上層は風通しの良い貴族街や展望区画、中腹は市場や職人街、そして下層には配送や狩猟、獣人の住まう街区が広がっていた。
崖と崖を結ぶ大橋は、強化石材と古代エルフの魔法工学の遺構を併せ持つ頑強な造りで、巨大な吊橋の要所に風見塔が立っている。橋の上を、荷車や人、飛空獣を連れた配達人が行き交い、絶え間ない活気を運んでいた。
ユルデンの街は、まるで風と霧とが育てたひとつの生命のように、渓谷の間に静かに息づいていた。
両岸の崖に寄り添うようにして築かれた家々は、岩肌と一体化するような造りで、濃い木材と灰色の石材が柔らかく朝日に染まっていた。窓辺には風除けの木格子がかかり、干された薬草や山野の布が、静かに揺れている。朝の光が崖の向こうから差し込むと、光は谷底に届くまで幾層にも反射しながら街を満たしてゆく。まるで、光そのものが一段ずつ階を降りていくようだった。
幾筋もの吊橋がたわんで架かっている、谷の空。
霧のなかに溶けかけた橋梁が、幻想的なシルエットを描いていた。
吊橋の中には、ただの通路にとどまらず、小さな屋台や祈祷所が設けられているものもあり、空中に生活が浮かんでいるかのようだった。
道は高低差を縫うように巡り、狭く曲がりくねった坂道や段差だらけの小径が、まるで山の呼吸に合わせて伸び縮みしているかのようだ。
道端には野草が茂り、小さな苔が石畳の隙間を柔らかく覆っている。
岩の間から湧き水が流れ、小川となって段々に組まれた水路を流れていく。
その音は、街のどこにいてもかすかに耳に届くようで、ユルデンに生きる人々の歩調とよく似た、やさしく穏やかなリズムを刻んでいた。
遠くには、まだ朝の薄明かりの中にぼんやりとした魔導灯が灯っていた。上層の方では、煙突から細い煙が立ちのぼり、石造りの家の群れが霞の中に浮かんでいた。
どこか夢の境界に在るような、現実と空想が溶け合うその光景は、訪れる者を静かに魅了する。
そして、すべての景色の背景には、そびえるルート山脈の頂がある。雪をいただいたその白い峰は、夜明けの空に淡く溶け込んでいて、まるでこの街が空と地を繋ぐ懸け橋であることを物語っていた。
石畳の小道を《グレイ・ホイール》の車輪が静かに転がる音が、ユルデンの朝の空気に溶け込んでいく。カリナは軋む舵棒に手を添えながら、街の息吹に耳を澄ませていた。
渓谷に築かれたこの街は、まるで大地の裂け目に宿る命のように、複層的で豊かだった。岩壁を背にした家屋の間には、生活のリズムが流れている。湯けむりの立つ路地裏では、早朝から湯治場を訪れる旅人が湯桶を抱え、軽い挨拶を交わし合っていた。温泉街としての顔も持つこの街では、朝の蒸気とともに、笑い声や湯のはじける音が柔らかく響いていた。
下層から中層へと続く坂道では、市場に向かう農夫たちが背負い籠を揺らし、香辛料屋の老婆が軒先に色とりどりの乾燥果実を吊るしていた。洗濯物の布が風に揺れ、どこか異国めいた歌が誰かの鼻歌となって、ひととき路地に浮かんだ。
そんな景色のなか、カリナは目的地へと足を向けていた。
向かう先は、「風の道」のギルド本部——ユルデン支部だった。
高台の中腹、広く開けた石のテラスに立つその施設は、白い石壁に風除けのアーチが並ぶ、まるで鳥の羽根を模したような優美な建築だ。その軒先で風に揺れるギルド旗には、風を象徴する銀糸の羽根と、大地を駆ける足跡の紋章が織り込まれている。
そしてその扉の先に待っているのは、カリナの旧友でもあり、配送員として名を馳せる鳥型獣人——ロッツォ。
抜群の飛行能力と記憶力を持つ彼は、地図も魔導端末も必要とせず、風の流れと土地の匂いだけを頼りに、あらゆる地へ配達をこなしてしまう稀有な存在だった。カリナにとっては、仕事仲間であり、よき相談相手でもある。
「風の道」には今日もまた、風をまとった者たちが集い、街と街を、想いと想いを繋いでいた。
カリナはふっと息をつき、少しばかり荷台の重みを意識しながら、ギルドの門へと足を踏み入れた。朝の光が、石畳に細く長い影を落としていた。
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【キャラクター設定】
名前:ロッツォ・ヴェイン
種族:獣人族(バード系/鳥型)
年齢:26歳
性別:男性
職業:飛行特化型配送員
肩書き:「空駆ける信使」
拠点:峡谷都市ユルデン(フェザーネット配送ギルド・ユルデン支部所属)
性格:寡黙で観察眼に優れるが、仲間には優しく繊細な気配りを見せるタイプ。合理主義者で現実主義だが、内に熱意を秘めている。
口調例:「風向きが変わったな。荷は急ごう」「お前の脚が地を走るなら、俺の翼は空を裂く」
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■ 背景・生業
ロッツォは翼を持つ“バード系獣人”として生まれ、若くしてフェザーネット配送ギルドにスカウトされ、以来「飛行専門配達員」として活動している。
ユルデン支部では「飛行部門」の主力メンバーの一人であり、地形・風向き・気流に対する知識は郡を抜いている。
・配達範囲は広域で、山岳地帯や森林地帯、気流の読みにくい地域を任されることも多い
・飛行に長けた個人配達員でありながら、ギルド教育係も兼任している
・カリナとは古くからの付き合いで、彼女の「風の道」加入にも関わった影の立役者
・彼女の気質を誰よりも理解しており、時に兄のように、時に同業者として支える存在
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■ 特徴と能力
・「空圧航法」:気流と魔力を併用した滑空技術。翼を持たない鳥獣人でも、長距離滑空と急旋回が可能。
・「風読眼」:わずかな風の流れから気圧・天候・敵対者の気配を察知する。配達時のルート選定に不可欠な能力。
・「対魔力荷重対応術」:魔導機器や封印食材など、魔力を含む荷物を安定運搬するための術式展開に長けている。
【鳥人族と運送業の関わり:歴史と種族的背景】
1. 種族の概観と生活圏
鳥人族(バード系獣人)は、古くは高山地帯や断崖地帯などの人の手が届かない辺境に暮らしていた。急峻な崖を住居とし、外敵から身を守るため、地上との接触を最小限に抑える文化を持っていた。
そのため、鳥人族の社会は自給自足の共同体的構造で、交易や通商とは距離を置いた存在だった。
また、彼らは「群れ」の中で静かに生きる気質を持ち、狩猟や採取、風読みの文化を重視する精神的な種族でもある。その反面、他種族に対して閉鎖的であり、文化交流は極めて限られていた。
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2. 旧時代(産業革命以前)の関わり
かつての配達業や運送業において、鳥人族の参加はごく一部、貴族や王族に雇われた“空の密使”や“封印通信の使者”といった形でのみ存在した。
これは、彼らの「空を飛ぶ」という希少な能力が、戦時下や機密通信において極めて有用だったためである。
しかしその活動はあくまで国家機密レベルのものであり、市民や民間流通とは無縁だった。鳥人族自身も、「人の物流」に自分たちが関与するという発想を持っていなかった。
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3. 新時代(産業革命以後)の転換点
魔導鉄道・物流の発展に伴い、山岳部や峡谷都市との流通需要が増加すると、「空から運べる者」の価値が再評価されるようになる。
特に、山間都市ユルデンのような「陸路が不便で空間的にも複雑な都市」においては、飛行可能な配達者の存在が戦略的に重要となっていった。
この時代の転換とともに、一部の若い鳥人族たちが「外の世界」と接するようになり、新たな生業としての“配達業”へ進出。
ロッツォもその流れの中で、先駆けとして「風の道ギルド」に加入し、市民レベルでの物流に貢献する珍しい存在となっている。
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4. 社会的なインパクトと評価
鳥人族の参入により、従来は困難だった山岳越えの急送、魔導車の入らない狭隘地での小口配送、気象に左右されやすい空間の配達業が大きく前進した。
また、彼らの風読みや高所適応能力は、“空間の物流”という新しい概念の出現を後押しした。
それと同時に、鳥人族の文化にも変化が生まれ、少しずつ「閉じた共同体」から「個と外界の接続」へと意識が広がっていくきっかけともなった。
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このように、ロッツォは単なる配送員ではなく、「鳥人族が物流社会に参加する歴史的な節目」を体現する獣人族である。彼の背景には、種族としての誇りと葛藤、そして静かなる挑戦が刻まれている。




