第192話
ミレスの谷には、朝の光がゆっくりと差し込み始めていた。
霞む川面は静かに揺れ、鏡のように空を映している。風はまだ眠っており、葉擦れの音もなく、世界はひととき、息をひそめているかのようだった。
カリナの《グレイ・ホイール》は、谷の手前で足を止めていた。
荷台には夕茜麦と紅礬粉の他に、昨日まで行っていた東の草原で見つけたばかりの素材が、丁寧に積まれている。
珍しい山野の山菜──“火染め草”と、アルカナ地域で見つけたばかりの微発酵加工用植物“リオタ草“。
どちらも、香りとコクに不思議な深みをもたらす食材だった。
ミレスの谷を渡るには、一本の細い吊り橋を越える必要がある。
古木の板と麻縄で組まれたそれは、今や配送ギルドのルートの一部として整備されているものの、なおも揺れ、軋み、山風にたなびく。
だが、カリナにとっては見慣れた道だった。
彼女は手綱を握り直し、そっと舵棒を押し出す。《グレイ・ホイール》が音もなく前に出た。
橋の上から見下ろすと、谷の底では川が静かにうねっている。
霧が川面を這い、時折、小さな光が揺らめいた。
それは、川霊たちが流れに溶け込む姿だった。
自然信仰が根強いこの地方では、こうした“気配”に手を合わせる習わしがある。
カリナもまた、そっと眉を下げ、小さく祈るように呟いた。
「よろしくね。通らせてもらうよ」
橋を渡りきると、道は緩やかに下り坂になる。
ほどなく、岩と土で造られた小さな拠点──《フェザーネット中継所・ミレス支部》が見えてくる。
早朝にも関わらず、すでに数人の獣人たちが荷物を運び入れていた。
揺れる旗の刻印が朝日にきらりと光る。「羽と蹄」の紋章は、配送ギルドとその誇りを表していた。
カリナは舵棒を引いて荷車を止めると、軽く首を回し、深く息を吐いた。
まだ湿気の残る風が、彼女の髪をさらりと撫でていく。
《フェザーネット中継所・ミレス支部》は、谷を背に岩盤を利用して建てられた半地下式の拠点だ。地表には風雨に強い鉄骨と木材の梁が組まれ、魔導照明が天井に並び、内部は昼夜を問わず作業可能な構造になっている。
建物は中央の仕分け広場を中心に、荷受け棟、登録事務所、保冷倉庫、休憩所といった施設が回廊状に配置されており、魔導滑車で上下階への荷運びも行える。壁には地図と配送予定表が貼られ、今日の運搬ルートが赤い糸で示されている。
働く獣人たちは実に多様だ。熊族のフリードが仕分け担当として低い声で指示を飛ばし、俊敏な狐族のエリナは伝票を束ねて帳簿を整える。猫族のラルスは飛空獣担当で、荷台の確認をしていた。彼らの目は真剣で、動きには無駄がない。配送とは単なる運搬ではない、彼らにとっては“生きた流通”そのものだった。
「よう、カリナ。早かったな、今回は」
荷受け棟の入り口で声をかけてきたのは、獣人族のラルス。耳をピクリと揺らしながら、手にした伝票をくるくる回している。
「うん、道も霧も静かだったしね。採れたてのリオタ草は鮮度が命だし」
そう言ってカリナが笑うと、ラルスは肩をすくめた。
ラルスは伝票をひとつ折りたたみ、指先で軽くトントンと叩きながら言った。
「リオタ草って、あれだろ? 香気が強くて腐りやすいやつ。よくこの湿気の中で……やっぱお前、運び屋ってより猟師に近いな」
冗談めかした調子にカリナは肩をすくめて笑ったが、その背後ではすでに《ミレス支部》の作業が本格化していた。
支部の中心には“魔導昇降台”と呼ばれる荷揚げ装置が設けられている。魔力圧縮器を用いて台座を上下させ、大量の荷物を一度に地上から河畔の船着き場へと移動させる仕組みだ。獣人たちはそれぞれ持ち場に散らばり、荷台の計量、伝票の照合、保冷箱の封印処理などを手際よくこなしていた。
「ほら、あの青い旗のとこが《河運部》。リオタ草、そっちに運んどけ。今日は《銀のしぶき》が出る日だ」
ラルスが指差した先では、霧の中に巨大な帆を広げた河船が待機していた。ミレスの谷を貫く大河“ルーマニア川”は、フェザーネットの水運ルートの要だ。船は定期便として下流の中継都市を経由し、最終的にはロストンへと至る。
◼︎ユルデンの命脈とも称される大河──ルーマニア川。
この川は、遥か北方、標高3,744メートルの「セレス山」に源を発し、全長1,927キロメートルにわたって帝国南部を貫流する。その流域面積は212,000平方キロメートルに及び、平均流量は2,470立方メートル毎秒。豊かな水量と穏やかな流れは、古来より交易と文化の大動脈として機能してきた。やがて川は南西にある「サン=エルモ湾」へと注ぎ、そこで海と大地の境界を溶かしていく。
「河船って言っても、ただの舟じゃないぞ。あいつは魔導推進だ。荷物の揺れも少ねえし、霧でもブレずに進める。魔導炉付きの船が増えてるから、上物が傷まずに届くって評判だぜ」
「ふふ、それなら安心だね。……じゃあ、お願いね。こっちはラベル貼っておいたから」
カリナは、荷車の一部を指し示しながら、丁寧に梱包された木箱を指差す。周囲では、すでに熊族のフリードが荷揚げ用リストを読み上げ、次の作業が進められていた。
セリュナの霧は少しずつ晴れ始め、河畔の帆柱が光を受けて輝いていた。
それは、今日もまた、いくつもの“届け”が始まる合図だった。
朝の光が川面に差し込むと、ルーマニア川は鏡のように空を映し出す。
朝の薄明かりが霧の帳をゆっくりと押し上げる頃、支部の作業棟では獣人たちが慌ただしく動き出す。フリードの声が響くと、仕分け台の周囲に荷箱が次々と並べられ、エリナがそのひとつひとつに魔導封印を施していった。記録簿の片隅には「ルース街道経由・第3便」などの文字が記され、それぞれの荷が、誰に、どこへ、どの手段で届くのかを的確に管理していた。
配送の中心となるのが、支部から張り出すように設けられた河岸の「浮き桟橋」だった。ここには魔導推進を備えた河船がいくつも停泊しており、荷を満載して静かに出港の時を待っている。
カリナは《グレイ・ホイール》の荷をスタッフに引き渡し、仕分けを見守っていた。彼女にとってこの支部は、ただの物流の拠点ではない。それは、この大地とつながり、生きた流れの一部になる“儀式”のような場所でもあるのだった。
カリナは静かに荷渡しを終えると、ミレス支部の河岸に立ち、ルーマニア川の朝の流れを見つめた。霧が揺れる水面の奥に、まだ眠っているような世界が広がっている。川霊たちの気配は柔らかく、しかし確かにそこに息づいていた。
「火染め草とリオタ草は別箱にしたよ。混ざると香りが立ちすぎるからね」
エリナが帳簿に走り書きをしながら声をかけてくる。彼女の尾が忙しなく揺れ、朝の光を反射する伝票がきらりと光った。
「さすが、気が利くね。新しく試したい素材なんだ、ちょっと風味が変わると思う」
カリナが微笑むと、エリナは興味深そうに箱を見やった。
「ふうん、相変わらず変わったもん持ってくるよね。リオタ草なんて、どこで拾ったのよ?」
「東の草原。アルカナ近くの乾いた丘。雨上がりに、たまたま群生してるのを見つけたの。香りもいいし、加工にも向いてると思って」
「へえ……商隊の連中、気に入りそうね。使いどころが難しそうだけど」
二人の背後では、フリードが巨大な木箱を運び出していた。ラルスは飛空獣の鞍を点検しながら、ちらと振り返る。
「でも、毎度毎度大変じゃないか?需要はあるみたいだが」
カリナは肩をすくめた。
「まあ、そうなんだけどね。ちょっと手間かけてでもいいものを届ける。——それが私のスタイルだから」
ラルスは「へぇ」と呟き、鞍を叩いた。
「……ま、“希少食材ハンター”のお前らしいよ」
配送とは単なる運搬ではない。誰かの手へ、誰かの思いを運ぶということ。
それをモットーに、カリナは食材を調達し、各地へとその“味”を届けていた。
カリナだけではない。この場所で働くものたちは、物を流通させ、“運ぶ”ことの重大さがわかっている。
それを知っている彼らの動きには、いつも迷いがなかった。荷台が川船へと積み込まれ、ミレス支部の朝は静かに、しかし確かに流れていく。
ふと後ろで大きな荷音が響いた。熊族のフリードが、巨大な箱を肩に担ぎ上げ、船へと運んでいく。「おしゃべりはそのくらいにしとけ。今日は南回りの便が混んでる。川の流れも速い。さっさと出すぞ」
その声に応じて、桟橋の魔導灯が順に灯り、荷船の側面に刻まれた「羽と蹄」の紋章が朝光を受けてきらめく。帆を上げた《銀のしぶき》が、静かに流れに乗って滑り出した。
カリナはその様子を目で追いながら、またひとつ、流れへと何かを託したような気持ちになった。
──今日も、流れは止まらない。
川が運ぶのは、物でも情報でもなく、生きる営みそのものなのだ。
その一端に、自分の仕事が繋がっていると、彼女は心の奥で静かに感じていた。