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第191話



夜明け前のユルデンには、音がなかった。


山霧がゆっくりと街を包み、石畳を這うようにして漂っていた。


ルート山脈の東斜面を吹き下ろす風は、夏であっても肌を冷たく撫でる。


まだ誰も目を覚まさぬ街の上空で、微かに羽ばたく音が響いた。


風を裂くような軽やかさと、獣めいた力強さを備えたその音は、やがて一軒の木造の建物の屋根に降り立つ。



 カリナはその背に乗っていた。



空を翔ける獣、“アルバ・グリフ”の背から滑るように飛び降りると、彼女は背負っていた荷を下ろし、ひとつ息をついた。


獣人の耳が小さく動き、霧の中から聞こえてくる山鳥の囀りを拾う。


「ただいま、ユルデン」


誰に言うでもない言葉が、朝の街に消えていく。


彼女の仕事は、“食材狩人ハーヴェスター”。


珍奇な魔獣の肉、希少な山の茸、深層に棲まう鉱蟲——それらを求め、山々や魔獣林を渡り歩く、孤高の職業だ。


ユルデンは、彼女にとって拠点であり、通過点であり、居場所でもあった。


彼女の住まいは、配送ギルドの外れにある古びた山小屋。


だが、中に入れば整然とした作業台、薬草を吊るした梁、乾燥肉を保存する木棚など、生活と仕事の両方が同居する“営み”の空間が広がっていた。


朝陽がようやく東の稜線を照らし、霧の向こうから街の輪郭が浮かび上がる。


高台に並ぶ石造りの屋敷、中央市場に煙を上げ始める煙突、獣人街から聞こえる子どもたちの駆ける足音——そのすべてが、山と共に生きるこの街の日常だった。


カリナは束ねた尾を整え、革手袋を締め直す。


今日もまた、荷を届けに行かねばならない。


食材の行き先は“ロストンの料理人”、ある煌水麺の天才——ジュジュ・アートボードのもとだ。


ふと、その名前を思い浮かべた途端、唇の端がわずかに緩む。


あの真剣なまなざしと、香辛料に包まれた厨房の香り。


そして——あの味。


「……はぁ、あのお店がこの街にもあったらなぁ」


小さく呟いて、カリナは再び空を仰いだ。


山の頂が、ようやく朝の光を受けて黄金色に染まっていた。


ユルデンの一日は、こうして始まる。


静かで、厳しくて、けれど確かな営みと誇りを宿した、霧と風の街で。



その朝、カリナはいつもより早く起きていた。


仕事道具をひとつひとつ手際よくまとめながら、玄関先の荷車──《グレイ・ホイール》に荷を詰めていく。

今日は、ただの定期配達ではない。


「……さて、今回は少し遠回りだったけど、手応えはある」


彼女の手が慎重に扱っているのは、内陸の丘陵地で見つけた“夕茜麦ゆうあかねむぎ”の麻袋。

小麦とは異なる、やや紅みがかった外皮。指先で触れると、ふわりと甘く穀香が立ちのぼる。

そしてもう一つ、密封された木箱には、特別な工程で精製した“紅礬粉こうばんふん”が収められていた。


どちらも、今回の“配達”の「主役」だった。


「ジュジュが喜んでくれるといいけど……味にはうるさいからなあ」


微笑む唇の端に、わずかな緊張が滲んでいる。

彼女は“届ける”だけではない。“味の先”を見据えていた。



納屋から引き出した《グレイ・ホイール》の銀灰のフレームは、朝日を浴びて静かに輝いていた。

風よけの帆を畳み、補助板の留め具を確かめる。魔導力のコアは既に満充填。

あとは、自分の足で、山を下り、谷を渡り、河港まで進むだけだ。


荷台の上には、ジュジュへの伝言を書いた紙片が風に揺れている。



「試してほしい、新しい一手。

きっとジュジュの麺に合うと思う。

カリナより。」



彼女は戸口に目を向けた。

誰もいない家に背を向けるその一瞬、なにか名残惜しさのようなものが胸を過ぎった。

けれどそれも、次の一歩に変わる。


カリナは風に翻る赤いマントを掻き寄せ、グレイ・ホイールのハンドルを軽く叩いた。


「さ、出発するよ」


坂を下りる足音とともに、霧の街がまた一つ目を覚ました。


春を孕んだ大陸の風が、しなやかな毛皮を揺らしていく。


獣人の狩猟者であり、配達人であり、味の“伴走者”。



彼女の運ぶ“食材”が、また一つ、新しい味の物語を作り出そうとしていた。


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