第189話
リタの言葉に、しばしの沈黙が落ちた。
ヴァンは、丼の中で箸を止めたまま、リタの横顔を見つめていた。ビールを飲み干した彼女の表情には、決意とも、諦めともつかない静かな色が浮かんでいた。
やがて、ヴァンは少し考えるように眉をひそめ、言葉を探してから静かに口を開いた。
「……でも、良いものは良いもので、変な“壁”なんて作らずに取り入れたらいいんじゃないか?」
リタが、目を細めてヴァンを見る。
「どういう意味だ?」
「つまりさ、俺たちの工房って、いつも“魂を込めて作る”って言うけど……実際には、全部がそうってわけでもないだろ?」
「……」
「注文品のなかには、安価で効率がよくて、量産しやすいものもある。使い捨ての農機具とか、軍の補給品とか。時間をかけて作るものがある一方で、そうじゃない仕事もあるってことは、リタ姉もわかってるだろ?」
リタは答えなかった。
ヴァンは少し言葉を重ねる。
「だから、線引きすればいいんだよ。大切なものに時間をかけて、そうじゃない部分には効率や資金援助を使う。そうすれば、むしろ“魂を込める仕事”に割ける力も増えるんじゃないかって。俺は……そう思ってる」
静かだった。
ジュジュの店の中には、ほかにも客の声や調理の音があるはずなのに、ふたりの周りだけがやけに静かだった。
リタは少しだけ口元を歪め、ジョッキの底を見つめながら言った。
「前にも言っただろ?」
その声音には、どこか凛とした響きがあった。
「ウチの工房には、“足りてないもの”なんてねぇよ」
ヴァンは目を見開いたまま、何も言えずにいた。
リタは続ける。
「足りねぇのは、心のほうだ。時間がない? 金が足りない? 人が足りない? ——だったら、そのぶん自分がやるだけだ。命削ってでも、作るだけの話さ」
「……」
「アタシはな、ヴァン。目の前の一本に全部を注ぎ込む。手を抜いたら、それは“作品”じゃねぇ。“商品”だよ。魂のこもってねぇ刃なんて、ただの棒切れだ」
「……でも、それでも使う人が喜ぶなら」
「その“喜ぶ”ってのが問題なんだよ。誰かの命を守る道具を、誰かの妥協で作っちゃならねぇのさ」
リタの言葉は、柔らかくも、芯を持った強さがあった。
ヴァンは、それ以上は何も言わなかった。ただ、リタの真正面にある信念を、まっすぐに受け止めていた。
炎炎亭の灯りは、そんなふたりの間に静かに揺れていた
「……リタ姉が言いたいことも分かるよ。でもさ、そういう“時間”を作るために、よりいい設備とか、作業しやすい環境を手に入れるってのは、悪いことじゃないだろ?」
ヴァンは、そう言って少し身を乗り出すように語った。
「限られた時間の中で、少しでも効率が上がれば、そのぶん他のことに集中できる。だったら、――」
「だーかーらぁっ」
リタはビールのジョッキをカウンターにガンッと置いて、食い気味に言葉を挟んだ。酔いがほんのり回ってきたのか、顔は赤く、目には熱が宿っていた。
「そもそも、“機械で作ろう”って発想が、間違ってんだよ」
「……!」
「工房をでかくして、作業ラインだの、自動化だの、効率化だのって話になると、だんだん“何を作ってるか”じゃなくて、“どうやって数を作るか”が先に来るようになる。そうなったら、終わりなんだよ」
ジュジュが慌てて厨房の奥から顔を出した。
「まぁまぁまぁ、ふたりとも、麺が冷めちゃうよー?」
声は軽やかだったが、その目には少し心配そうな色も混じっていた。何しろ、普段は騒がしいだけの飲み仲間が、ここまで真剣に言い合っている姿を見るのは珍しい。
リタはそれでも引かなかった。
「ヴァン、お前の言いたいことはわかるよ。時間に余裕があれば、確かに違うこともできる。環境が良ければ、もっと丁寧に作れるようになるかもしれない。……でもな」
リタは、もう一度、ジョッキを取ってぐいっと飲み干し、空をカウンターにコトンと置いた。
「アタシは、“何をどう作るか”じゃなくて、“どれだけ想いを込めて作るか”に懸けてんだよ。何振りも作る必要はない。一本でいい。その一本が、誰かの命を救えるほどのものでありゃ、それで十分なんだ」
その言葉に、ジュジュは手を止め、ヴァンは黙り込んだ。
熱い想いが、静かに卓を満たしていく。
リタは、空になったジョッキを指先でコトリと揺らし、しばしの沈黙のあと、ぽつりと呟いた。
「アタシはさ、たった一本でいいんだよ」
ヴァンはその言葉に、顔を上げた。
「一本……?」
「そう。一本。たった一本、たった一点の、“究極の形”だ」
リタの声は低く、でも芯が通っていた。いつもの豪快な口調とは違い、どこか祈るような、願うような響きがあった。
「それが誰かの人生を変えるかもしれない。その剣が、誰かの命を救うかもしれない。そういうものを、アタシは作りたいんだよ」
それは、きっと言葉にはしない想いだった。
バッシュとはなにか。仕事とはなにか。
鍛治とはただ金属を打つ作業ではない。魂を叩き込むことだ。
リタは、目の前の一振りにすべてを懸けていた。だからこそ、効率とか量産とか、そういう言葉にはどうしても反発してしまう。
——それは“魂”を希釈する行為だと思っていたから。
ヴァンは、それを黙って聞いていた。
わかるような気もした。けど、完全に理解したわけじゃない。
眉をひそめ、少し俯く。納得したようでもあり、納得しないようでもある、そんな曖昧な表情が浮かんでいた。
彼の中で、いくつもの思考が交錯していた。
リタの言っていることは正しい。でも、自分の考えもまた、完全に間違っているとは思えなかった。
工房の未来を考えるとき、現実的な視点も必要だ。
「……」
でも——。
ヴァンは分かっていた。
自分はまだ、精巧な剣ひとつ、満足に鍛えられない。
リタのように魔導核の配置を見抜いたり、エングレイブを自在に刻むこともできない。
“見習いの鍛治職人”。
それが今の自分の立場だ。リタの背中には、まだ届かない。
そんな自分が、口を挟むこと自体、おこがましい——
そう思っていた。
けれど、それでも。
(……俺は考えたいんだよ)
ヴァンは、そう心の中で呟いていた。
“工房の未来”や、将来のことについてを。
リタは、それに気づいたのか気づかないのか、再びどんぶり碗に視線を戻し、少しだけ冷めかけた煌水麺をひとくち啜った。
「……うん。辛ぇな、相変わらず」
そうぼやきながら、どこか満ち足りたように、小さく笑った。
ジュジュはその様子を見て、ふっと表情を緩める。
静かで、熱をはらんだ夜のひとときが、そっと流れていった。
夜はすっかり更け、煌めく街灯の下、炎炎亭の中も徐々に落ち着きを取り戻していた。
店の片隅——窓際のテーブルには、爆睡中のリタが突っ伏していた。頬を赤らめ、腕を枕にして口をわずかに開けたまま、静かないびきを立てている。
テーブルの上には空になったジョッキが3つ、飲み残しのグラスが2つ。さらに、焼いた香草ソーセージの皿には数切れだけが残されていた。
「よく飲んだな……」
ヴァンは呆れたように言いながらも、隣で気持ちよさそうに眠るリタを見て、どこか安心していた。
自分も顔が少し火照っていた。酒のまわりはそこそこだったが、リタに比べれば可愛いものだった。彼女の豪快な飲み方に付き合いすぎると、いつもこうなる。けれど、今夜は特別だった。
——言いたいことは言った。ぶつかるだけぶつかった。
その余韻が、今の空気を満たしていた。
カウンターの奥では、ジュジュが静かに皿を片付けていた。店内の客もだいぶ減り、忙しさは峠を越えたようだった。やがて彼女は、手にしていた布巾を置き、ふたりのテーブルにやってきた。
「ふふ……リタちゃん、いい感じにできあがってるね」
ジュジュは笑みを浮かべながら、酔い潰れたリタの頭のあたりを覗き込んだ。
「まぁ、今日はちょっと飲みすぎてるけど……」
ヴァンは苦笑しつつ、自分の前の皿に残った《ジュゾーサ煮込み》を口に運んでいた。
ジュゾーサは、赤い斑点のある小ぶりな獣の名で、スパイスと果実の漬け汁で煮込むと、しっとりした肉と濃厚なソースがクセになると評判の一品だ。
「おいしいな、これ。……辛さが後から来るタイプだ」
「でしょ? これはリタちゃん向けにちょっと多めに辛くしてあるの。ヴァンくんにはちょっと刺激が強いかもって思ってたんだけど、意外と平気みたいだね」
ジュジュはカウンター越しとは違う、少し穏やかな声で言った。彼女は誰よりも、この店の空気を読み、客の心を見抜いていた。
「リタちゃんの気持ち……私にも、ちょっとわかるよ」
ヴァンは、その言葉に箸を止めた。
「……ジュジュも?」
「うん。私も、結局は“職人”だからさ」
ジュジュはリタをちらりと見やり、続けた。
「おじいちゃんの味を受け継いで、ただ真似するだけじゃなくて、それ以上のものを作りたいと思った。いつか“あの味を超える”って。……それがどんなに大変なことかは、わかってるつもり。でもさ——」
彼女の瞳には、静かに燃えるような意志の光があった。
「“この一杯”に、命をかけてるんだよ。毎日、同じように見えても、全部違う。その日、その時、その人に一番美味しいって思ってもらえる一杯を出したい。だから、やっぱり“効率”とか“量産”とかじゃ測れないことって、あるんだよね」
ヴァンは、黙って聞いていた。
言葉を返すには、少しだけ時間が必要だった。
彼の中でまた、新たな「揺らぎ」が芽生えていた。リタの言葉、ジュジュの言葉、そして自分の考え——それぞれの「正しさ」が、胸の奥で静かにぶつかっていた。
リタは相変わらず、ぐーすかと寝息を立てていた。
ジュジュは笑いながら、その頭にタオルケットをそっとかけてやった。
「……ヴァンくん、焦らなくていいと思うよ。自分の答えって、急いで出すものじゃないから」
「……うん」
ヴァンは小さく頷きながら、残りのジュゾーサ煮込みをひとくち、口に運んだ。
スパイスの刺激と、ほんのりとした甘みが、静かな夜にじんわりと染みていく。
店の外に出る頃には、夜はすっかり深くなっていた。
リタはヴァンの肩に寄りかかるようにして、ふらふらと歩いていた。すでに意識は半分夢の中——足取りはしっかりしているようで、どこか危なっかしい。
「ったく……飲みすぎだっての」
ヴァンは苦笑しながらも、彼女の腕を支え続ける。工房に戻るには、商店街を抜けて坂道を上る必要がある。いつもならなんてことない道のりも、酔っ払いを連れて歩けばなかなか骨が折れた。
通りにはすでに人影もまばらで、夜の街を照らすのはオレンジ色の街灯と、頭上に広がる星々のきらめきだけだった。
「ヴァン……」
リタが不意に、眠たげな声で呼びかけた。
「ん?」
「……さっきの、アタシ……怒ってたなぁ……」
「まぁ、うん。かなり」
「そっか……ふふっ、悪かったな……」
リタの言葉は、酔いに滲んでゆっくりだったが、不思議とまっすぐに胸に届いた。
「……でもさ、アタシ、本気なんだよ」
「……うん」
「誰かのために作るのが職人だって、オヤジはよく言ってた。でも……アタシにとっては、それ以上に、アタシ自身のために作ってるのかもしんねぇな」
街灯の光が、リタの睫毛を照らす。その横顔は、ふだんの豪快さとは違って、どこか静かで、儚げですらあった。
「アタシ、自分が納得できる一本を作りたいだけなんだよ。それがなきゃ、誰かのためにもなれねぇって思うの。だから、あのローデンとか、効率がどうとか、そういうの見るとさ……違うだろ、って、ムカついちまうんだ」
その言葉には、素直な本音があった。
ヴァンはしばらく黙って歩き、やがて小さく呟いた。
「……リタ姉、すげぇな」
「ん?」
「俺さ、たぶんまだ“一本”に懸けるって、どういうことか……ちゃんとわかってないんだと思う」
リタは目を細めて、肩にもたれたまま小さく笑った。
「それでいいんだよ。まだまだ、これからだろ。……とりあえず、まずは酒の強さを鍛えるとこからな?」
「そこ!?」
ふたりの笑い声が、夜の道に静かに響いた。
坂の上にある工房が、少しずつ見えてきた。暗がりに佇むその姿は、まるでふたりを迎えるように静かに佇んでいた。