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第188話




ローデンの足音が遠ざかっていくのを、リタは黙って聞いていた。


工房に残されたのは、打ち終えたばかりの鉄の熱と、どこか余韻を引きずるような静けさだった。


その沈黙の中、リタは静かに槌を置いた。


拳をそっと握りしめた指の間に、熱がまだ残っている。


しかし心の中では、それとは別の熱が渦巻いていた。



──抑えきれない、苛立ち。



ローデンの理屈も言葉の重みも、頭では理解できる。


けれど、心は納得しない。


仕事が、技術が、この空間が、「生産性」や「効率」だけの言葉で測られたことに。


どうしようもなく、胸がざわついていた。


空気を変えたかった。今すぐにでも、この鉄と煤の匂いから逃れたかった。


だから——


「おい、ヴァン。飯食いに行くぞ!」


その言葉は、衝動のように口からこぼれた。


工房の隅で油まみれの工具を拭っていたヴァンが、驚いたように顔を上げた。


目をぱちぱちと瞬かせた後、戸惑いがちに応える。


「……お、おう」


わずかに間をおいて、彼は立ち上がる。


リタはもう背を向けて歩き出していた。


午後の喧騒に染まる工房の扉の向こうへ。


ヴァンはその背中を見つめ、一拍遅れてその後を追う。


街はちょうど、夜の色に変わり始めていた。


舗石の路地が茜色に照らされ、行き交う人々の影が長く伸びていた。


リタの足取りは、いつになく早い。


その背中に、ヴァンは言葉にできない焦燥を感じた。


ただの“食事”じゃない。


今の彼女には、火照った心を冷ます風と、何かを吐き出す時間が必要なのだ。


だから、ヴァンは余計なことは言わず、ただ並んで歩いた。



やがて、二人は馴染みの小さな食堂に辿り着く。


窓から洩れる灯りが、ふたりを柔らかく迎え入れた。


リタは扉を押し開け、静かに中へ入る。


木製のテーブルと椅子のきしむ音、スープの煮える匂い、静かな湯気。


日常の、なんでもない、けれど確かな温かさがそこにあった。


リタは窓際の席に腰を下ろすと、額にかかる髪をかきあげ、小さくため息をついた。


「……悪いな、いきなり。どうかしてたかも」


ヴァンは椅子に腰掛け、笑って首を振った。


「いや……いいと思うよ。たまには、さ」


言葉は少なかったが、それで十分だった。

リタの表情が、ふっと和らいだ。


注文を終え、料理が届くまでの間、ふたりはとりとめのない話を交わす。

窓の外では、夜風が小さく街灯を揺らしていた。


少しずつ、緊張がほどけていく。

怒りも、焦りも、時間のなかでやがて薄らいでいく。

そんな風にして、ふたりは静かな夜の一角に身を寄せ合っていた。





店内には、薬膳の香りと、煮え立つスープの湯気が漂っていた。


木製の壁には東方風の掛け軸や、煌びやかな調理器具が飾られており、厨房の奥からは規則的な包丁の音と、湯気を含んだ蒸気の音が聞こえてくる。


リタが連れてきたのは、ロストンでも知る人ぞ知る名店——「炎炎亭」。


煌水麺の名匠と呼ばれる若き店主、ジュジュ・アートボードが腕を振るう小さな店だ。


「おまたせ、リタちゃん。特製、三辛煌水麺——今日はちょっとだけ気合入れてみたよ」


カウンターの奥から、湯気に包まれた丼を手に、少女が姿を現す。


彼女はまだ二十歳そこそこの若さだが、亡き祖父の味を継ぎ、店を切り盛りしている天才料理人だ。


細身の体に、頭の上で小さく結んでいる赤茶のウェーブボブ。頭には油染みのついたバンダナを巻き、袖をまくった調理服のままリタに笑いかけてくる。


「……へぇ、珍しいじゃん。リタちゃん、そんなに疲れた顔して」


ジュジュは鍋の中をちらりと見ながら、慣れた手つきでスープを注ぎながら続けた。


「バッシュ職人が、そんな顔してちゃさ。刃も鈍るでしょ?」


リタは、どこかバツが悪そうに笑いながら、テーブルに届いた煌水麺の丼を見つめた。


赤く燃えるようなスープに、弾力のある黄色い麺。トッピングには、香草と炙った肉、煮卵、そして発酵竹の子がたっぷり乗っている。


彼女の視線が、ひときわ濃い香辛料の香りにぴくりと反応する。


「……三辛って、あんた、火吹かせる気かよ」


「んー? 今日はリタちゃん、絶対辛いのが合うと思ったからさ。ほら、いつもは“普通の辛さでいい”って言うくせに、ぜんっぜん汗かかないし」


ジュジュはひょいと椅子に腰かけ、にやにやと笑みを浮かべながら肘をつく。


「で? なんかあった?」


「……別に」


リタはそう言いながらも、割り箸をパキッと割って、煌水麺を一口すすった。


湯気と一緒に、鼻腔に突き刺さる刺激。舌に広がる辛さの中に、深い旨味と微かな甘みが染みわたる。


「……っつぅ……! あっつ、辛っ……でも、うめぇ……」


「でしょー? リタちゃんが静かにしてると、なんかこっちが心配になるからさ。ほら、辛さで無理やりでも汗流して、スッキリしてきなよ」


「あんたねぇ……」


リタは半ば呆れたようにジュジュを見るが、どこか安心したように口元をゆるめた。


厨房では、また別の鍋が火を噴くように音を立て始める。


小さな店の中で、料理と会話が交差し、心の奥にこびりついたおりが、少しずつ溶けていくようだった。




「おまたせ、ヴァンの分も出来たよ。こっちは“中辛特製”——リタちゃんほどの火力じゃないけど、そこそこ効くよ?」


ジュジュが冗談めかして笑いながら、ヴァンの前に煌水麺の丼をそっと置いた。


「サンキュー……うお、いい匂い……」


ヴァンは湯気を浴びながら目を細め、割り箸を手に取って麺を持ち上げた。


黄金に輝くスープに照らされた麺が、まるで光を帯びているかのように艶めいて見える。ひとくち啜った瞬間、香辛料とコクのある出汁が一気に口の中に広がる。


「……うん、うまッ。やっぱ、ジュジュの作る麺は格別だな」


「ふふ、ありがと。食べてる間は余計なこと考えなくて済むから、たくさん食べなね」


ジュジュは厨房へ戻っていった。リタはビールのジョッキに口をつけながら、ヴァンの表情をちらりと盗み見る。


少しの間、スープと麺をすする音だけが、ふたりの間を満たしていた。


だがやがて、リタの声がふいにその沈黙を破った。


「なぁ、ヴァン」


「ん?」


「あの話——ローデンの。お前はどう思った?」


ヴァンは少し驚いたように顔を上げると、箸を止めたまま、言葉を選ぶように一瞬考え込んだ。


「……悪い話じゃないと思う。正直なところ、俺は、ちょっとアリかもって思ったよ」


リタの視線が、ぴたりとヴァンを捉える。


「自動化されたバッシュ。量産品。確かに、昔みたいな“鍛冶屋だけの技”って感じじゃなくなるかもしれない。でも、だからって、俺たちの仕事が消えるわけじゃない。むしろ、資金が入って、時間に余裕ができれば——もっと自由に、深くものづくりができるようになるかもしれない」


リタは、しばらく無言でヴァンの言葉を聞いていた。


その瞳は、どこか寂しげで、同時に諦めにも似た色を帯びていた。


やがて、彼女は静かにため息をつき、残っていた麺をひと口、豪快に啜った。


「……やっぱ、わかってねえなぁ。お前も、あの役人も」


ジョッキを手に取り、残っていたビールをぐいっと飲み干す。


喉を通る苦味と炭酸が、熱の残る胸をほんの少しだけ冷ましてくれる。


「バッシュを作るってのはよ、効率とか利益とか、そういうモンだけじゃねぇんだ。鍛冶屋の仕事ってのは、“誰かのためになる一本”を、命削って仕上げる仕事なんだよ」


リタの目は、どこか遠くを見つめていた。


炎炎亭の灯りが、ゆらりと揺れている。


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