第187話
◇
「それで、この度の商談についてですが、いいお返事は頂けそうでしょうか?」
リタの答えは決まっていた。
帝国商務庁、技術開発局所属のガルハルト・ローデンは、シュナイダー工房の前に馬車を停めた後、着こなしたネクタイをクイッと締め直しながら、作業中のリタと相対していた。
じっと作業風景を眺めながら、蓄えた髭を時折指でなぞりつつ手を後ろに組む。
対してリタは、話を聞く気もなさそうだった。
それは彼女の中で、ひとつの答えがあったからだ。
言葉にするまでもなく、はっきりしていた。
“工房を政府に売る気はない”と、その背中が物語っていた。
ローデンはしばし沈黙を保った。
工房内を満たすのは、鉄と油の匂い、火花の弾ける音、そしてリタの槌音。まるでそこだけ時間のリズムが違っているような、不思議な密度があった。
「……見事な手際ですね。これが“技”か。なるほど、言葉より雄弁だ」
ひとりごちるようにそう言うと、ローデンは足を一歩前に出した。
「けれども、リタ・ヴァイスハイト殿。我々が求めているのは、あなたの“技術”ではない。“未来”です。人の手だけでは追いつけぬ生産性、失われぬ均一性、広がる戦線に応じられる供給力。帝国は、それを求めているのです」
リタは手を止めなかった。が、その言葉の意味を噛み締めているかのように、わずかに動きが鈍った。
「あなたの工房は素晴らしい。弟子たちも育ち、伝統もある。しかし、それは永遠ではない」
ローデンの声には熱があった。演説ではなく、本気の、ある種の情熱。だがそれは、あくまで国家の歯車としての熱だった。
「私の知っている限り、これほどの鍛冶場はもう帝都にも数えるほどしか残っていない。だが、次の時代は、職人の背に頼るにはあまりに巨大だ。帝国はもう、職人芸ではまかないきれない規模にまで膨れ上がっているのです」
リタは、ゆっくりと顔を上げた。
薄暗い工房の中で、揺れる炎の明かりが彼女の額に浮かぶ汗を照らす。手にした槌が一度、空気を裂いて振り下ろされた。
カァン、と高く響いた音に、ローデンの口が一瞬止まる。
リタは手を止めず、毅然とした態度で言い放った。
「最初に言っただろ?『話を聞く気はない』って」
ローデンは役人らしい貫禄を漂わせつつ、不敵な笑みを浮かべていた。すぐに引き下がる様子もなく、少し粘るように言葉を続ける。
「協力してくれれば、今の作業をより良くできる。バッシュの新しい可能性だって見つかるかもしれない」
リタの手が一瞬止まり、眉間に皺を寄せる。
「あんたにアタシらの仕事の何がわかんだよ?」
彼女はローデンに詰め寄った。
二人の距離は手を伸ばせば届くほどに縮まり、その間に張り詰めた緊張が漂う。
ローデンは微笑みを崩さず、帝国商務庁の役人としての威厳を保ちながら、リタの反応を静かに待っていた。
「あんたは『効率』とか『生産性』とか、そんな言葉ばかり並べるけどな、アタシらにとっちゃ、バッシュを作るってのは、ただの仕事じゃないんだ。これはアタシらの誇りであり、魂そのものなんだよ」
確かに、世の中は変わってる。
魔導機関を使った機械が次々に発明されて、行く手には見たこともない機構や工場が立ち並ぶ。
街はどんどん大きくなっていた。
リタが気がかりだったのは、そういった時代の「波」に、自分たちが創り上げてきたもの、——信じてきたものが失われていくことだった。
「機械で大量生産されたモノには、アタシらの手仕事の温もりも、細部へのこだわりもない。バッシュを手にする人が、その一振りに込められた想いを感じ取れるかどうか、それが大事なんだ」
カァン……!
再び鋼を打ち据える槌音が、静まり返った工房に高く響いた。
ローデンの口元が微かに引き締まる。その瞳には、諦めの色はなかった。むしろ、彼の眼差しには「これで終わらせるつもりはない」という確固たる意思が宿っている。
「誇りも魂も、もちろん理解しています。職人の信念、それがどれだけ重いものか……私も商人として、分かっているつもりです」
彼の声は低く、しかし明瞭だった。
「だが、それでも、私はあなたに問いたい。あなたの作る“唯一無二のバッシュ”が、五千、いや一万の命を救えるとしたら? 職人の技は、いまや武器ではなく、『戦局を変える方程式』として求められているのです」
リタは目を細めた。
その表情に、かすかな怒りと戸惑い、そして迷いが見え隠れする。
だが——その迷いは、次の瞬間に打ち砕かれる。
「……それでも、アタシは自分の方法を変えるつもりはない」
リタは真っ直ぐにローデンを見つめ、言葉を絞り出すように続けた。
「アタシが作りたいのは、千人の兵士が握る“そこそこの剣”じゃない。一人の戦士が、“命を懸けるに値する一本”なんだよ」
その言葉には、揺るぎない覚悟があった。
「バッシュはな……アタシにとって“作品”じゃない。“証”なんだよ。アタシが誰で、どんな仕事をしてきて、どんな想いを込めてきたか、その全部が詰まってる。量産だ? 合理化だ? そんなのはな、アタシが生きてきた意味を塗り潰すようなもんだ」
ローデンは黙ってリタの言葉を受け止めていた。
だが、彼の顔から消えたのは笑みではなく、むしろそれに似た“敬意”だった。
「……実に明確だ。貴女が何者で、何を信じているのか。なるほど、確かに“バッシュを作る”というのは、単なる鍛造ではないようだ」
リタは、再び槌を振り下ろす。その目には、もはや迷いはなかった。
「アタシは自分にしか作れねぇもんを作る。それだけさ」
そして、最後にローデンを一瞥してこう言った。
「だからあんたの話は——悪いけど、全部、お断りだよ」
ローデンは帽子を静かに取り、深く一礼した。
「その答えもまた、尊重に値します。……ただし——」
彼はわずかに口元を吊り上げた。
「未来は、選択を待ってはくれません。どうか、そのことだけは忘れぬよう」
そして彼は、一歩引いた。
「この商談は、また改めるとしましょう。少なくとも、あなたの槌音が止むまでは」
そう言って、彼は再びネクタイを直し、馬車へと歩を返した。リタは振り向かなかった。だがその背中には、誇りと意志と、そして鍛えられた年月のすべてが宿っていた。
扉が軋む音とともに、ローデンの姿が街の喧騒の中へと溶けていく。
工房には、再び槌の音が響き始めた。
揺れる炎とともに。
──それは、ひとりの職人の信念が、まだ燃えている証だった。