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第186話



風の中に、草の香りと、遠くの牧場の匂いが混じっていた。


ティナはヴァンの言葉を反芻するように静かにうつむき、しばらくしてから、ふと口を開いた。


「ヴァンは……どうするの?」


その問いは、柔らかくも、核心を突いていた。


ヴァンは目を細め、手の中の草を無意識に撫でる。


「どうって、俺は工房のためを思って——」


「うん、そうなんだろうけど……“自動化”って、ヴァンにとって本当にいいことなのかな?」


ティナの目が、まっすぐにヴァンを見つめていた。


「機械に任せれば、効率は上がるし、経営も楽になるかもしれない。でも……ヴァン自身は、それで満足できるの?」


彼女のその言葉は、風よりも静かに、けれどはっきりと彼の心の奥に届いた。


「……」


ヴァンは答えられなかった。


彼女の疑問は、ずっと彼の胸の中にあったもやを、そのまま言葉にしたようだった。



──機械が、すべてを担う世界。


──職人の手が、必要とされない世界。



それは、かつての彼が夢見た世界だったのだろうか?


ティナは、少しだけ遠くを見ながら呟いた。


「ヴァンが鍛冶職人になりたいって言い出したときのこと、覚えてるよ。あれ、たしか……街角でグスタフさんに声かけられたんだよね?」


その名前に、ヴァンはゆっくりとうなずいた。


「そうだな。あのときは“偶然”だった。工房の前で、馬車の荷台を漁ってたんだ。ティナも当時はやってただろ?裕福な貴族から物を盗むのは、俺たちにとっちゃ生きていくための1つの方法だったからさ?……まあ、そこで運悪く見られちまってな。“そんなもん盗むよりウチで働いてみたらどうだ”って、突然言われたんだ」


「その数ヶ月後だっけ?ヴァンが『とんでもないものを見た』って興奮してたの。今でも覚えてるよ」


ティナの声には、懐かしさと少しの笑みが混ざっていた。


「リタさんのこと、ずっと語ってた。火花の中で、鉄がバッシュに変わっていく瞬間が、まるで魔法みたいだったって」


ヴァンの顔に、ふと幼い光がよみがえる。


「……本当にすごかったんだ。あの手さばき、あの集中力……全部が完璧で、無駄がなくて。それでいて、生き物みたいに熱を帯びてた。俺も、ああなりたいって、心から思った」


ティナは小さくうなずいた。


「じゃあ、今のヴァンは、その夢の続きを歩いてるのかな?」


それは優しい問いだった。


けれど、ヴァンの中に、鋭く突き刺さるものがあった。


風が、彼の髪を揺らす。遠くで牛の鳴き声が響いた。


その音が、彼の答えをせかしているように思えた――。




風が、牧場の草を撫でていた。緩やかに波打つ緑の海。その合間にぽつんと立つ二人の影も、風にゆらゆらと揺れていた。


ヴァンは、しばらく答えを口にしなかった。


目の前には、ティナが大事に育ててきた牧場。


あの頃、空腹と寒さに震えていた二人が、いまはこうして陽の下で話している。牛たちがのんびりと反芻し、鶏が草の間をつついて歩き、遠くの畑にはトマトが赤く実っている。ひとつひとつが、誰かの手によって生かされている命だった。


「夢の続きを歩いてるか……」


ヴァンは、自分の手を見つめた。機械油と煤の匂いが染みついた指先。それでも、この手で誰かの役に立ちたかった。あの頃、リタの背中に憧れて、あの火花に心を奪われて。自分も、何かを“つくる”人間になりたいと思った。


ほんの数年前の話だったとしても、随分と昔のことのようにも感じられる。


世の中は変わり続けてる、


地平線に伸びていく鉄道に、ドス黒い煙。


魔導期間が搭載された巨大な貨物船や、街の通りに立ち並んだ街灯。


今の時代は、“効率”や“利益”が求められる。心よりも数値。手よりも歯車。


「わからないんだ。別に何かをやめようって言ってるわけじゃない。良いものは良いものとして取り入れて、残すものは残す。それで良いんじゃないかって思うんだ。…ただ、リタ姉の言うことも、なんとなく分かる気はしてる」


ティナは、静かにヴァンの横顔を見つめていた。


「鉄の匂いとか、ハンマーを振り下ろす時とか、手作業でしか得られないことだってあると思う。機械で、リタ姉の技術を再現できるなんて思ってねえよ。やることはやらなきゃいけないし、俺自身、もっともっと成長しなきゃいけないって思ってる。汗をかいてる時が一番実感するんだ。「仕事」をしてるってさ?」


「それってさ、ちょっとだけ、牧場の朝と似てるかも」


「朝?」


「うん。眠くて、体が重くて、やること山積みで。だけど、ひとつひとつの仕事をこなしていくうちに、動物たちの目が優しくなるのがわかる。草の匂いが変わって、太陽の光が少しずつ温かくなってくる。それでね、『ああ、今日も生きてるな』って思えるの」


ヴァンは、目を細めた。


ティナの言葉は、いつだって不思議だ。力まないのに、ちゃんと心に届く。


「ヴァンも、そうやって日々を積み重ねてるんだよ。きっと、何が正しいとか間違ってるとかじゃなくて、何かに一生懸命なんだったら、それで良いんじゃないかな。頼んでた農機具だってそうじゃん?それが機械で作られようが人の手で作られようが、目の前の仕事を頑張ってるんだったら。……それが、いつかまた、誰かのためになる。私はそう思うよ」


風がふわりと吹いて、ティナの髪をやさしく揺らした。


ヴァンは小さく笑った。


「お前って、ほんと牧場に似てるな。根っこが強いっつーかなんつーか」


「それ、褒めてる?」


「もちろん」


「なら、よし」


ティナも笑った。二人の間に流れる空気は、かつてと何も変わらなかった。無数の困難を越えても、こうして並んで笑えるのなら、それだけで救いになる。


陽は少しずつ傾きはじめ、空の端が淡い橙に染まりつつあった。


日常の中の、かけがえのない一日。

それはきっと、何よりも確かな、人生の輪郭だった。





牧場を出る頃には、もう西の空が淡く朱に染まり始めていた。


馬車の車輪が、草を押し分ける音を立てて進んでいく。ティナがくれた果実の香りがほんのりと鼻をくすぐり、荷台の揺れに合わせて、乾いた革袋が小さく音を鳴らしていた。


夕暮れの光はやわらかく、あたり一面を琥珀色に染め上げていた。牧草の穂が光を受けて、まるで金色の絨毯のように波打つ。ヴァンは手綱を握る手に力を入れながら、そっと目を細めた。


牧場から工房に近づくにつれて、景色は少しずつその輪郭を変えていった。


石造りの古い家々は、今では壁面に金属の支柱が打ち込まれ、見慣れぬ鉄の装置が軒先にぶら下がっている。かつては子どもたちの笑い声が響いていた舗装のない路地も、今では機械仕掛けの街灯が灯りはじめていた。


ほんの数年前までは当たり前だったものが、今ではどこか、よそよそしい。



あの頃の自分がここに立ったなら、何を思うだろう。


まだ子供だった自分が、街の中を駆け回っていた頃——


工具箱を抱えて工房を駆けまわり、リタの鍛冶槌に息を呑んだ日々。その心の熱は、今も変わっていないはずなのに——。



工業区のほうを遠くから眺めると、灰色の煙が夕焼けの空にじんわりと溶け込んでいた。建設が進んだ煙突がいくつも並び、鉄の焼けるような焦げ臭い匂いが、風に乗って微かに届く。


流れる空と、雲。


カンッカンッと、金槌が鳴り響く音。


潮風が、頬を撫でていった。


遠く、港の方角。塩と油と、夕陽に温められた磯の匂い。


海に近い街では、漣に紛れたような、ほのかに青い風が吹く。


見上げた空は、茜から群青へと溶けていく途中だった。


雲はゆっくりと形を変えながら、どこか遠くへ旅をしている。



いつかの自分も、こんな風に空を見上げていた。


行き先を知らず、ただ憧れだけを胸に抱えていた日々。


今、自分が歩いているこの道は、あの頃の夢に繋がっているんだろうか。


ヴァンはひとつ深く息を吸い込み、胸の内に流れるその空気を感じていた。





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