第185話
「そういや……」
牧場に来た理由。
そのことをヴァンは思い出しつつ、入り口に停めてきた馬車の方角に目を見遣る。
「頼まれてた農機具、完成したぞ」
ティナはぱっと顔を輝かせた。
「ほんと? !ありがと!!」
そう言って、彼女は何のてらいもなく笑った。
その笑顔を見ていると、ヴァンの胸の奥に、小さなあたたかい灯がともるようだった。
「最近の牧場の調子はどうなんだ?」
ヴァンがふと、ティナに尋ねた。
ティナは少し考えるように顔を上げ、手を止めてから答える。
「うーん、忙しいけど、順調だよ。牛たちが元気すぎて、朝早くから放牧するのに手間取っちゃうけどね」
彼女は笑いながら、かすかに眉をひそめた。
「特にあの黒い子、ちょっと食べすぎじゃないかと思って」
その話を聞いて思わず笑う。
牛たちの世話は確かに大変だ。
放牧地に広がる草がだんだんと減ってきて、次第に新たな草を植える必要が出てくる。
そうした管理もティナの日常の一部だ。
「もうちょっとしたらコカトリスの繁殖時期だしさ?凶暴な子がいるんだよね。体も一回り大きくてさ…」
「ふーん。そりゃ、大変だな…」
コカトリスっていうのは鶏とは少し違った産卵鶏だが、飼育するには少し大変だと聞いていた。ただでさえでかい体に凶暴ときたら、さすがのティナもお手上げなんじゃないか?
そう思う気もした。
「でも、やりがいはあるけどね?」
ティナの目が少し輝いた。
彼女は話すとき、仕事のことを語るときが一番、心から楽しそうだった。
「牧場の仕事って、まるで毎日がひとつひとつ小さなパズルを解いているような感じ。どんなに忙しくても、どんなに疲れても、手を抜けない。動物たちが頼りにしてるから」
その言葉に、静かに耳を傾けた。
彼女の一つ一つの言葉には、牧場という場所での深い責任感と情熱がこもっていた。
ティナがここで何年も働いてきた理由が、ヴァンににわかる気がしていた。
「でも、どんなに大変でも、牧場が順調に回るときが一番幸せかな。動物たちが元気に育って、作物がちゃんと収穫できて、みんなで食べるご飯が美味しいって思える時。そういう瞬間が、私にとってのやりがいだと思う」
ヴァンは、ティナの言葉を聞きながら、ふと遠い記憶に引き戻されるのを感じた。
──毎日がひとつのパズル。
その言葉の奥に、かつての彼らが歩んできた日々の影が静かに重なって見えた。
ストリートチルドレンとして過ごした少年時代。
朝は寒さで目を覚まし、夜は腹を空かせたまま藁の中にうずくまった。
ティナとヴァン、そして数人の子どもたちで寄り添いながら、ただ生きるために日々をやり過ごしていた。
「今日のごはん、あるかな」
「どこかに残飯、出てないかな」
そんなことばかりを考えていた日々。
あのころ、時折ティナと二人で、裕福な家の塀を乗り越え、庭先の菜園からトマトや豆をこっそり取ったことがあった。
泥だらけの手で、真っ赤な実を頬張って笑った彼女の顔を、今でも鮮明に思い出せる。
ある日の午後、川で釣りをした。細い枝と錆びた針で作った即席の釣り竿。
釣れた魚はほんの一匹だったけれど、それが二人にとってはごちそうだった。
ティナは小さな火を起こして魚を炙りながら、「こんなに贅沢していいのかな」なんて、冗談めかして言った。
その声の奥に、確かにあったのは──生き延びたという安堵と、ほんのひとかけらの誇りだった。
生きるというのは、大変なことだった。
毎日が必死で、未来なんて考える余裕もなかった。
ただ一日を生きることだけが、子どもだった彼らにとっての“仕事”だったのだ。
だからこそ──
ヴァンは今、この草の香りが漂う牧場の斜面で、何気ない時間を過ごしていることが不思議にさえ思えた。
背中に日差しを感じながら、ティナと共に“仕事”について語り合えることが、どれだけ意味のあることかをしみじみと噛み締めていた。
「……仕事があるってだけで、マシだよな」
ぽつりとこぼれたその言葉に、ティナが小さく目を細めて振り返った。
「うん、ほんとにね。あの頃の私たちからしたら、きっと、夢みたいな毎日だよね」
ヴァンは頷いた。
日々の糧を得ることに追われ、明日があるかどうかもわからなかった頃。
それに比べれば、仕事に汗をかき、誰かの役に立てる今という日々は、十分に恵まれていると思えた。
彼の目に、少しだけ空がにじんで見えた。
だが、それは悲しみではなく──たしかな「今」がここにある、という実感から来る温かさだった。
「それに、こうやってヴァンと話してると、あっという間に時間が過ぎていくよね」
ティナがにっこりと微笑む。彼女の顔が、先ほどまでの真剣な話から少しだけ柔らかく、心地よくなった。
ヴァンはそれに応えるように、軽く肩をすくめて言った。
「サボってるとこ邪魔して悪かったな」
ティナは少しむくれたように腕を振り上げ、意地悪な彼の肩を叩く。
「サボってないって!」
木漏れ日が降る日差しの下で、二人の笑い声は絶えなかった。
気さくな彼らのやり取りは、下町で暮らしていたあの頃の息遣いが残る、昔ながらの光景でもあった。
この牧場で過ごす時間は、なぜだか心がほどけていく。
まるで風が優しく撫でるように、すべてが自然で、無理がない。
ティナは草の上に軽く寝転んだまま、空を仰いでぽつりと訊いた。
「ヴァンの方こそ、仕事はどう? シュナイダー工房、大変なんでしょ?」
その問いに、ヴァンは少しだけ言葉を飲んだ。
まるで心のどこかを見透かされたようで、視線を少し落とす。
──たった二週間前のことだった。
工房に、帝都から来たという政府の役人が訪れた。
背広を着た男が、手に資料を持ってリタにこう言ったのだ。
「ラント帝国の新たな工業政策の一環として、鍛治技術の自動化と量産体制の確立を目指しています。特に、武器や防具であるバッシュの製造ラインを、今後は機械式に移行させる予定です。シュナイダー工房にも、ぜひ協力をお願いしたい」
政府の支援を受ければ、より大規模な設備が整い、注文にも迅速に対応できるようになる。
小さな工房が、大きな工場へと成長するチャンスだった。
「……いい話だったはずなんだ」
ヴァンはぽつりと呟いた。
「資金の援助も、人員の派遣も惜しまないって言われた。効率よく、大量に、しかも安く作れるようになる。俺は、これが工房の未来だって思ったんだ」
風が、草をやさしく撫でた。ティナは、黙ってヴァンの横顔を見ていた。
彼の瞳の奥にある、揺らぐもの。誇りと現実の狭間で揺れる葛藤が、滲み出ていた。
「でも……リタは、反対だった。まるで、お金なんかに興味ないみたいに」
その言葉に、ティナは小さく息をついた。
ヴァンの手が、無意識に草を握りしめていた。
「なんでだろうな。俺には……まだ、それがよくわからないんだ」
淡い陽光のなかで、二人の影が並んで揺れていた。
草の香りと、遠くで鳴く鶏の声。
ただ静かに、心が問いかけ続けていた。




