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第184話




門をくぐってすぐ、ふわりと足元に柔らかな影が落ちた。


「……おおっと」


ヴァンの足元をするりとすり抜けてきたのは、猫のようでいて、猫とは少し違う生き物だった。丸い耳に、ふさふさとした長い尻尾、雪のように真っ白な毛並みに、琥珀色の大きな目。手のひらサイズの体で器用に跳ねながら、ヴァンの足元に擦り寄ってくる。


「やあ、ココ。今日も元気そうだな」


彼がそう声をかけると、ココは「ミィ」とも「ピィ」ともつかない柔らかい鳴き声を上げ、くるくるとヴァンの周囲を回る。


種族名は“ミルフェル”という、小型の温和な魔獣で、この牧場ではペットとして飼われている。名付け親はもちろんティナで、彼女が見つけた時からずっと、この牧場で暮らしているらしい。


ヴァンはしゃがみ込み、ココの頭を優しく撫でた。


毛並みは陽に温められていて、指先に柔らかく伝わる。


「お前は変わらないな。……俺も、少しは変われてるかね」


ココが小さく鳴いて、答えのようなものを返す。そんな仕草に、ヴァンは思わず笑みをこぼした。



ゆっくりと歩き出すと、牧場の景色が広がっていく。


背丈の高い牧草が揺れる一角では、数頭の牛がのんびりと草を噛んでいた。毛並みは黒と白のまだら模様で、のそりとした動きがどこか愛らしい。その近くには、簡素な木柵で囲われた鶏小屋があり、陽だまりの中で鶏たちが羽ばたきながら砂を浴びている。時折、コケコッと大きな声が響き、他の鳥たちもそれに応えるように騒ぎ立てる。


さらに進むと、低く伸びた屋根の建物が見えてきた。牧場の中心に据えられた、赤茶色の瓦屋根の牛舎だ。その壁面には陽を受けた蔦が這い、入り口の上には小さな風見鶏が取り付けられている。


牛舎の隣に、木造の管理室が連結されていた。こちらは比較的新しい建物のようで、屋根の色合いもまだ鮮やかだった。扉の上には「管理室」と焼き板で記された看板が掲げられている。


ヴァンが扉をノックすると、中から背の高い中年の男が顔を出した。


「おや、ヴァン坊じゃねえか。今日はまた、どうした風の吹き回しだ?」


男の名はヒューゴ。元は北方の放牧地で働いていたベテランの牧場管理人で、今はティナの牧場を任されている。筋肉質な体に白髪混じりの無精髭、目元に刻まれた皺は年季の証だが、その瞳はまだ鋭く、若者たちに引けを取らない。


「農具の修理と……あと、ちょっと顔を見にね」


「ふん、そうかいそうかい。あの子は……確か馬小屋の方だったかな」


ヒューゴは顎で牧場の奥を指す。柵越しに見えるのは、数頭の馬たちが休む大きな小屋。そこからは、微かに藁の香りと、蹄の音が風に乗って届いていた。


「ありがと。じゃあ、行ってみるよ」


ヴァンは軽く手を挙げて礼を言い、馬小屋の方へと歩き出した。ココがまた、ついてくるようにその後をぴょこぴょこと跳ねている。ゆるやかに陽が傾きはじめ、草原に長く影が伸びる。


そして、胸の奥が少しだけざわつくのを、ヴァンはそっと押し隠すように、次の一歩を踏み出した。



ヴァンは歩みをゆるめ、草の擦れる音を聞きながら牧場の敷地を見渡した。


草原の緑は陽の光にきらめき、風が吹くたびに波のようにうねる。所々に木製の柵が張り巡らされ、牛や羊、鶏たちがその内側で穏やかに動いている。そのすべてが、淡く、柔らかく、まるで絵本の中に迷い込んだような景色だった。


ふと振り返れば、遠くロストンの街並みが見える。白い石造りの家々が連なるその姿は、昼下がりの光に浮かび上がり、潮風に包まれてゆらめいている。港の灯台──イルミナスの白い塔が、空を突くように聳え、青空との境界線で静かに佇んでいた。


街は音と匂いと動きに満ちていたが、ここは違った。


ここには、時の流れさえ、少しだけゆっくりに感じられる気がする。


ヴァンは馬小屋に近づくと、手を口に添えて呼びかけた。


「おーい、ティナ!」


返事はなかった──代わりに、小屋の近くで草を噛んでいた栗毛の馬が、ピクリと耳を立て、軽く鼻を鳴らした。


「お前じゃないだろ」と言いつつも、ヴァンは自然と笑みをこぼす。手を伸ばしてその馬のたてがみをくすぐると、馬は気持ちよさそうに首を振った。


「まったく……どこ行ったんだ?」


独り言のように呟きながら、馬小屋の周囲をぐるりと回る。その時だった。


斜面に目を向けると、草に覆われた小高い丘の上、風に揺れる麦の中にぽつりと横たわる姿が見えた。


──ティナだ。


麦わら帽子を顔にかぶせ、腕を枕にして、すやすやと寝息を立てている。草の中に沈むようなその姿は、どこか子供のころのままで、ヴァンの胸に懐かしさがよぎった。


彼はそっと足音を殺しながら、斜面を登った。帽子の下から覗く金髪が風にそよいでいる。陽射しを受けたその頬には、ふわりと赤みが差していた。


ヴァンは隣に腰を下ろし、しばらくティナの寝顔を見つめる。


──こいつは、昔からよく昼寝してたっけな。


唇の端に笑みが浮かぶ。


「……わっ!」


突然、声を張り上げると、ティナが跳ねるように起き上がった。


「きゃあああっ!?」


麦わら帽子が風に舞い、ティナの髪がばさっと広がる。驚きと混乱が入り混じった顔で、彼女はきょろきょろと辺りを見回した後、すぐに状況を理解する。


「あんたぁ……っ!」


怒りのこもった声と共に、麦わら帽子がヴァンの顔めがけて投げつけられた。


「わはははっ! 最高のリアクションだな!」


ヴァンは顔にかかった帽子を取りながら、腹を抱えて笑った。ティナは頬をふくらませて睨みながらも、その目尻にはうっすら笑いの色が滲んでいた。



「まったく……いい歳して、何が“わっ!”よ」


ティナは帽子を奪い返すようにヴァンの手から取り上げると、ふうっと大きく息を吐いた。風に吹かれて流れる金色の髪が陽光を受け、淡くきらめく。


「わりぃわりぃ。でも、あんなに驚くとは思わなかったんだよなあ」


ヴァンはそう言いながら、目元にしわを寄せて笑う。笑顔のまま、草の上に仰向けに寝転がると、視界には果てのない空が広がった。青く、柔らかく、どこまでも続いていくような──そんな空。


ティナも隣に座り、膝を抱えてヴァンの横顔をちらりと見た。


「こんなとこで寝ると、風邪ひくわよ」


「そう言うティナはさっきまでここで寝てたんじゃん」


「……それは、その……」


言い返せなくなったティナはぷいと顔を背ける。その仕草が可笑しくて、ヴァンはまたひとつ小さく笑った。


風が、草の海をなでるように吹き抜けた。遠く、牛の鳴き声がのどかに響き、鶏が羽をはばたかせながら柵の中を走り回っている。太陽は斜め上から差し込み、二人の影を優しく重ねていた。


「子どもの頃は、こんなふうに牧場に来るたび、ティナと走り回ってたな。牛追いっことか、卵拾い競争とか……」


「やったやった。あたしが毎回勝ってたよね」


「いや、それは違う。お前がズルしてたんだって」


「してない!」


ティナがむくれるように言い返す。けれど、その声もどこか楽しげで、ついには二人して笑い合う。


笑い終わると、静けさが戻ってきた。風の音、鳥のさえずり、そして時折聞こえる動物たちの声。そのすべてが、まるで子守唄のように心地よく、穏やかだった。


「……こうして、また来れるとは思ってなかったな」


ヴァンがふとつぶやく。視線は空の先に向けられ、どこか遠くを見ているようだった。


「鍛冶職人になるなんて、昔の俺じゃ想像もつかなかった。あの頃は、もっと別のこと考えてた気がする」


「でも今のヴァン、けっこう似合ってるよ。職人の顔、ちゃんとしてるもん」


ティナはそう言って、少しだけ頬を赤らめながら笑った。


「そうか……? 」


ヴァンは照れくさそうに頬をかき、ティナから視線を逸らす。


そんなふたりの間に、また風が吹き抜ける。


何も言わなくても、言葉がなくても、心が通じ合っているような──そんな静かな時間が、しばらく続いた。


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